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大阪府南河内郡太子町は、古代、難波津と飛鳥京を結ぶ最古の官道・大道――竹内街道――が横断するヤマトの玄関口でした。この太子町には「竹内街道歴史資料館」なる資料館もあり、もちろん見学してまいりました。我が故郷にも「東街道歴史資料館」のようなものがあったらなあ、などとうらやましく感じたりもしながら、相変わらず関連文献などを不用意(?)に買い求めてしまい、だいぶ金子を浪費してしまいました。 推古天皇陵 この竹内街道は、シルクロードの終着点としての外交的文化的側面の他、用明天皇や推古天皇といった飛鳥時代の著名な為政者たちの陵墓も連なり、「王陵の谷」などと呼ばれる葬送の道でもありました。 司馬遼太郎さんの母方の実家はこの街道の葛城峠を越えた奈良県側あたりらしく、司馬さんは幼い頃その家に預けられていたようなのですが、家の裏には地元の人が「“長髄彦(ながすねひこ)の墓”だ」と言ってはばからない「しょうむない丘」があるのだそうです。その一事からしても歴史の厚みを感じざるを得ませんが、残念ながら今回はその話を旅の道中に突然思い出したので、その「しょうむない丘」の場所を探さずに通過してしまいました。帰宅後ネットで調べてみたら、私は限りなくそこに近い場所を通過していたようで、事前調査不足を大変悔やんでおります。次回は必ずこの目で確認してこようと思っております。※確認済み さて、聖徳太子の陵墓と伝わる「磯長廟(しながびょう)」も、大阪側ですがその竹内街道沿線、先に述べた「王陵の谷」にあります。「磯長山 叡福(えいふく)寺」というお寺はその陵墓を祭祀守護する役割を果たしており、それを中心としたこのあたりは太子信仰の一つのメッカでもあるようです。 磯長廟 さて、太子の墓と言われるこの磯長廟ですが、少々妙な点があります。まずは叡福寺の縁起の一部をご覧ください。 ――引用―― 〜 境内北方の高所に営まれた磯長墓は、推古二十九年(六二一)崩御の聖徳太子の生母穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)、翌年二月大和斑鳩宮(やまといかるがのみや)において、時を同じくして、亡くなられた聖徳太子、同妃膳部大郎女の三人が一所に葬られているところから、三骨一廟(さんこついちびょう)とよばれ 〜 聖徳太子は、単独ではなく母親と妃とともに葬られていると言うのです。前に少し触れましたが、井沢元彦さんは著書の『逆説の日本史(小学館)』において、このことから聖徳太子が怨霊であったというアプローチをしておりました。井沢さんは古代埋葬の習慣である「殯(もがり)」に注目して、その期間の長さでそれが怨霊候補であったかどうかを推測できるというのです。殯については『日本史広辞典(山川出版社)』では以下のように説明されております。 ――引用―― もがり【殯】荒城(あらき)とも。古代に行われた喪葬儀礼の一つ。人の死後、埋葬までの間、遺骸を小屋などに安置し、近親らが奉仕する。六四六年(大化二)の薄葬令以降、王以下庶民の殯は禁止された。天皇の殯は、六世紀以降、中国の殯(ひん)礼の影響をうけて儀礼化したが、仏教の喪葬儀礼や火葬の普及のため、文武天皇を最後に行われなくなった。 井沢さんは、殯には儀礼的宗教的意味合いの他に、陵の造成期間という実質的な目的もあったと説明しております。それが何故怨霊の“リトマス試験紙”になり得るかというと、その造成期間も待てずに早く埋葬してしまいたいという心理が関係するからです。怨霊候補の遺体は、既に出来上がっている誰かの墓に合葬する傾向があったようです。
なるほど、その死者に対して後ろめたい気持ちがある人物にしてみれば、遺体が墓に葬られずにいつまでもその辺に置かれていたのではとても落ち着かないことでしょう。とにかく早く供養しなければ恐ろしくてしかたありません。 もちろん、その場合でも合葬の相手は選ばなければなりません。その異常な死を遂げた人物にとって一緒に葬られても納得のいくような人物の墓でなければ、尚更その死者の怒りを買い兼ねないからです。 なるほど、磯長廟の聖徳太子はこれにピタリとあてはまるようです。太子の命日に関しては諸説あるのですが、命日から埋葬までの殯の期間は長く見ても25日ほどのようで、とても陵を造成している時間はないようです。 井沢さんはこのことと、“徳”の一文字が贈られた人物が往々にして“無念な死”を遂げていることを例にあげ、ましてや聖徳太子においては最大級の賛辞といえるような「聖徳」という命名が贈られていることから、「聖徳太子が怨霊である」とされておりました。 ところで、他にももう一つ奇妙なことがあります。太子と一緒に埋葬された膳部(かしわで)妃は、三人いたという太子の妃のなかで最も身分が低いのです。しかも、先に引用した叡福寺の縁起からもわかるとおり、この妃は太子と「時を同じくして、亡くなられ」たとのことで、どうやら太子はこの妃と心中されたようなのです。このことは『太子伝暦』に書かれております。 井沢さんは、急いで埋葬されたことについてはちゃんと触れている『日本書紀』が、「心中」や「合葬」について触れていないのは、「この事実を隠そうという意図があってのことだろう」としております。更に、『太子伝暦』は太子を賛美するために書かれた伝記であるはずなのに、このような不名誉なことをあえて書いているのは、やはりそれが事実であったからであろうとしております。 なるほど納得です。 それが真実であれば、巷に言われる“聖徳太子キリシタン説”はここに破綻することになります。何故ならば、キリスト教の熱心な信者であれば、“主”――造物主・創造主――からもらった命を勝手に終わらせることは絶対に許されないからです。 余談ながら、もし聖徳太子の夫婦心中――自殺――が真実であれば、当然私の仮説――太子幼年期夭折説――も破綻します。それについては、いずれあらためて私なりの解釈を述べてみたいと思います。 |
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