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7世紀以前の皇位継承は、「父子」ではなく「兄弟」の相続が原則なのだといいます。そしてその兄弟の格は同等であったらしく、その母親の格にも上下関係はなかったといいます。つまり、天皇家の血統であれば継承者の候補には特別な順位などなかったというのです。兄弟が皆平等であるという部分だけで言えば、ある意味「家督(かとく)相続制度」が廃止された現代の法律と同じと言えるかもしれません。 若い方には、家督と言ってもピンと来ない方もいらっしゃると思うので補足しておきますと、家督相続制度とは、“原則「嫡子――正室の長男――」が相続する”という制度です。能力があろうとなかろうと嫡子が相続するのです。一夫一妻の感覚で言うならば、いかに優れた弟がいようとも、長男が跡を継ぐのです。こう書くと、いかにも悪い制度のように見えますが、これは実はなかなか優れた制度なのです。 個人的には――私は末っ子で幸い両親も健在で、かといって特に大きな相続資産もありませんが(笑)――家督相続を復活させたほうがいいのではないかと考えております。 能力の有無など、三者三様いかようにも解釈できます。はっきり言えば、歴史の事件のほとんどは相続に起因していると言っても過言ではありません。なまじ兄弟全員に平等の相続権があるから相続争いがおきてしまうのです。血を分けた兄弟同士の当事者だけならば譲り合えるかもしれませんが、各々他家と姻戚関係を結んでくると、財産があればあるほどその他家が干渉してしまうものです。 ましてや、歴史上の君主的存在ともなれば妾も複数いるわけで、各々の母系が黙っていないわけです。これは残念ながら歴史が証明している現代にも通じる事実なのです。だから有無を言わさず“長男が継ぐ”あるいは“長女が継ぐ”という、とにかくいずれかのルールを明確に決めてしまえばだいぶ防げることもわかっております。 「差別を助長しかねない思想」と言われるかもしれませんが、江戸時代が長く安定したのも、案外その家督相続の部分が大きかったのではないかと思います。 ともかく、聖徳太子が生まれる前後100年というのは兄弟平等の時代であって、その背後の力関係で皇位が決定されていたようです。その結果何が起きていたかというと、兄弟の殺し合いです。 また、これは私の想像ですが、血の独占のための限りなく近親相姦に近い姻戚関係の展開により、不具の子も少なからず生まれていたのではないのでしょうか。 それを考えると、いつもは悪役にしか思えない中臣氏――藤原氏――も、魂胆はともかく、一切の野党を排除して天皇家を世界に類を見ない“万世一系”に“限りなく近づけた”という意味では、日本という国家のかたちに素晴らしい功績を残したと言えるのかもしれません。 ただ、新たに藤原氏の“血の独占”が展開されたようですが・・・。 ところで、何故私が「祟峻天皇の御代」という部分に反応したのかというと、祟峻天皇の“謎の皇子”に興味があるからです。 「元年の春三月に、大伴糠手連が女小手子を立てて妃とす。是蜂子皇子と錦代皇女とを生めり」 これは、『日本書紀(岩波書店)』の「祟峻天皇即位前期」の祟峻天皇の妻子についての記述です。ここにある「蜂子(はちこ・はちのこ)皇子」についての史料はほとんど見つけられないのですが、同書の注釈には 「上宮記に波知乃古王、錦代王とある」 と書いてありました。つまり、太子信仰の聖書(?)「上宮記」にも蜂子皇子の記述があるようです。 何を隠そう、この“蜂子皇子”こそ、東北地方を代表するような「出羽三山信仰」の開祖であり、前にも触れたとおり、山形県の羽黒山にあるその陵墓は東北地方では貴重な宮内庁管理地になっております。 書紀の記述から、蜂子皇子は祟峻天皇元年(588)の三月以降に生まれたことがわかるのですが、その書紀によれば祟峻天皇の在位は5年であり、巷に言われるように蜂子皇子が「祟峻5年」ないし「推古元年」に聖徳太子のアドバイスにより宮中脱出を決行し、羽黒山を開山したというのならば、蜂子皇子は“5歳未満”であったということになります。ウェブの百科辞典『ウィキペディア』にある舒明23年(562)生まれ(?)というのは『上宮記』からのものなのでしょうか・・・。『上宮記』を確認していない私はなんとも言えません。しかし、高森明勅さん監修の『歴代天皇辞典(PHP文庫)』では祟峻天皇の生まれを587年(?)と推定しており、これが妥当だとすれば、蜂子皇子は父親――祟峻天皇――よりも先に生まれていたという“あり得ない”結論になります。
ちなみに、私の旅の最終地、秦河勝の寺「廣隆寺」は、古くは「蜂岡(はちおか)寺」と呼ばれていたようです。 |
畿内探索 聖徳太子編
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