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「大伴親王」は何故「大伴親王」なのでしょう。まるで「ロミオあなたは何故ロミオなの?」みたいですが、もちろんそのような情緒的な問いではありません。当時は乳母の名を冠されることも多かったのだからとりたてて騒ぎ立てることではない、という意見もあるかもしれません。しかし、それであれば何故名門大伴氏が同じ名であることを憚ってわざわざ自らの名を変名しなければならなかったのか、その顛末がやたらきな臭いと感じるのです。
大伴親王が生まれたのは延暦5年(786)とされておりますが、何故か月日が詳らかではありません。天皇の生年月日が不明であるのもいぶかしいのですが、その誕生前年の様子がなかなか唸らせられます。例の藤原種継暗殺事件があった年なのです。 延暦4年(785)9月23日、事件前に既に死していた大伴家持は、尚も事件の首謀者として連座させられ、官籍を剥奪されております。 その二ヶ月後、11月24日に藤原旅子は無位から急に従三位に昇格しております。つい事件との因果を想像してしまうのですが、これはもしかしたら懐妊によるものかもしれません。年が明けて延暦5年(786)1月17日、旅子は桓武天皇の夫人に任ぜられております。 旅子は天平宝字3年(759)に生まれております。両親は、通説では、父は「藤原百川(ももかわ)」、母は「藤原諸姉(もろね)」となっております。 さて、「旅子」は何故「旅子」なのでしょうか。もちろんロミオとは関係ありません。 実は私は、この「旅子」という名前もひっかかっているのです。何故なら、大伴家持の父親の名が「旅人(たびひと)」だからです。 大伴氏筆頭の家持の父、大納言・従二位という政府高官「大伴“旅”人」と偶然にも似ている名前を持った無位の「藤原“旅”子」が、大納言の息子で中納言・従三位の大伴家持が冤罪で処分された直後に、その家持と同格の従三位まで昇格し、天皇の夫人に任ぜられ、そして生まれた皇子が「大伴親王」であったのです。 私には偶然とは思えません・・・。 ところで、桓武天皇は、予め「安殿(あて)親王――平城天皇――」・「神野(かみの)親王――嵯峨天皇――」・「大伴親王――淳和天皇――」の三兄弟に、各々10年ずつ天皇として在位するように遺言したと言われております。その遺言の真偽については異論もあるのですが、私は事実だったのではないかと思っております。でなければ、同母兄弟の平城から嵯峨の譲位はともかく、異母兄弟の嵯峨から淳和の譲位について、兄弟愛の美談はともかく、現実的な理由が見当たらないからです。 あるいはもしかしたら、安殿――平城――の次は大伴――淳和――へ、という遺言に、神野――嵯峨――が割り込んだのかもしれません。もしそうだとすれば、仁明天皇が恒貞親王を廃した行為は、さほどに父嵯峨上皇の意思に背いたものでもなくなってきます。 それはともかく、桓武天皇のその異例の遺言の意図はどこにあったのでしょうか。 私は、桓武天皇自身が、自分の兄弟――他戸親王・早良親王――を貶めてまで皇位についたが結果、生涯タタリに怯えながら政務を執らざるを得なくなった、その実際の苦い経験から息子達――平城・嵯峨・淳和――に対して教訓を発したのではなかったかと思います。 そして、この遺言で最もポイントとなったところは、私は大伴親王――淳和天皇――にも皇位を継承させようとしたところにあると思います。この三兄弟のうち、平城天皇と嵯峨天皇の母親は正妃の藤原乙牟漏(おとむろ)で、一方淳和天皇の母親はくどいようですが藤原旅子です。普通に考えれば、正妃に二人も男子が生まれていれば、何も他の妃の子にまで皇位継承の権限を与えなくてもよさそうなものです。しかし、桓武天皇はあえてそこにこだわったのだと思います。 それは、ひとつには桓武天皇と早良親王の兄弟自体が傍流であり、皇位継承の身分において淳和天皇と同じ立場であったからだと思います。淳和を正当に認めることによって、遡って自分の正当性もアピールしようと考えたのではないでしょうか。 そしてもうひとつは、大伴親王――淳和天皇――が、乳母云々よりも濃厚なものとして、なんらかの形で大伴家持とつながりがあった――だろう――ことの意味が大きいと想像します。 大伴親王が大伴氏と関係があるか否かにかかわらず天皇が一氏族にそこまで気を遣う必要があったはずはない、と思われる方もいらっしゃるかと思います。 しかし、ヒステリックなまでにタタリに怯え続けた桓武天皇だからこそ、私は“規格外”と考えております。桓武天皇の心を“忌の際(いまわのきわ)”に至るまで苦しませたのは何であったでしょうか。桓武天皇が断末魔最後に残した遺言が大伴家持らを復権させることであったことは無視するわけにいかないと思います。 ただ、桓武の崩御時点で大伴親王は20歳です。平城・嵯峨で皇位期間を費やしたならば、人間50年と言われた昔の寿命で考えたら、確実にまわるとも限りません。そこで各々10年という期間まで定めたのでしょうが、それでも、大伴親王が夭折してしまったらまわらないかもしれません。 しかし、おそらくそれでもいいのでしょう。桓武天皇としては、「大伴親王にも皇位を継承させようとした」という事実さえあれば満足だったのだと思います。それで亡き大伴家持の霊に対して義理を果たせたのだと思います。 |
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