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宮城県黒川(くろかわ)郡――。 仙台市の北に位置するこの郡には、現在「富谷町(とみやまち)」「大和町(たいわちょう)」「大郷町(おおさとちょう)」「大衡(おおひら)村」といった四つの町村――富谷町は「まち」と読むのが正式――が存在します。黒川郡は仙台のベットタウンとしておしなべて人口増加の著しいエリアですが、特に富谷町などは数年前まで全国一の人口増加率を誇る町でした。 また、大和町や大衡村などは、このほど世界のトヨタの子会社「セントラル自動車」の本社移転と、それに伴う関連企業の移転ブームに盛り上がっております。 一方、大郷町も負けてはおりません。大郷町で“日本一”と言えば、なんと言っても俵担ぎの“日本一”を決定する、あの“日本一俵担ぎ競技大会”! 勝手にT1グランプリとでも呼んでおきましょうか、大郷町はその主催地なのです――ご存知ではない?――。 さて、黒川郡が衛星都市として機能するのは、なにも仙台市の発展に始まったものではありません。奈良・平安期には国府“多賀城”の衛星都市として機能しておりました。陸奥国がほぼヤマト政権掌握下に入った奈良時代において、「多賀城」という“都市”は、都市地理学の観点から言っても、首都「平城京」以下、“遠の朝廷(とおのみかど)”「大宰府(だざいふ)」と並んで日本三大都市の一つでした。黒川郡はその多賀城の衛星都市だったのです。そして、実はその黒川郡の主人公が、“大伴氏”だったようです。 富谷町志戸田(しとだ)に、かつて延喜式神名帳に記載された「行(ゆき)神社」があります。つまり「式内社」です。 行神社 また、同じ黒川郡の大衡村駒場には「須岐(すき)神社」があり、やはり延喜式神名帳に記載がある「式内社」です。 この両神社はそれなりに謎めいた部分があり、秘かに有識者の議論を呼ぶものとなっております。これらを「行き・過ぎ」というように捉えて、一種の“岐神”と考える向きもあれば、もしかしたら「大嘗祭(だいじょうさい)」の「悠紀(ゆき)殿・主基(すき)殿」になぞらえたとも考えられ、好奇心をくすぐるものなのです。 折口信夫さんなどは、「悠紀・主基」そのものが「往き・過ぎの意かもしれぬ」としております。 とにかく、参考までに「大嘗祭」について、『広辞苑(岩波書店)』から引用します。 ――引用―― 【大嘗祭】天皇が即位後、初めて行う新嘗(にいなめ)祭。その年の新穀を献じて自ら天照大神および天神地祇を祀る、一代一度の大祭。祭場を2ヶ所に設け、東(左)を悠紀(ゆき)、西(右)を主基(すき)といい、神に供える神穀はあらかじめ卜定した国郡から奉らせ、当日、天皇はまず悠紀殿、次に主基殿で、神事を行う。おおなめまつり。おおにえまつり。 さて、ここまでネタを振っておきながら、実は私が「行神社」に注目しているのは、その部分ではありません。 行神社の祭神は、現在「猿田彦(さるたひこ)命・磐長姫(いわながびめ)命・大物主(おおものぬし)命・崇徳(すとく)天皇」ということになっておりますが、サルタヒコ以外は明治に入って合祀された他の神社の祭神のようですので、無視は出来ずとも、惑わされるわけにはいきません。つまり、行神社の祭神はサルタヒコとされていたということです。しかし、それだけでは特に私の心を驚かすには値しません。 実は、行神社は一昔前には別名としてですが“志波大明神”とされていたようなのです。 そして、私にとって更に重要なことがあります。 それは、正直なところ有識者からはあまり相手にはされていない言い伝えです。そのことは、参道前の説明看板には書かれておりませんでしたが、暗い拝殿の内部にじっと目をこらすと書いてありました。 行神社は黒川郡の大領主「靱大伴連(ゆげいおおともむらじ)の祖廟」と伝えられているのです。 さて、この地の地名をもう少し詳しく言うと、富谷町志戸田字“塩釜”です。
実は、その因果もかなり気になっていたのですが、拝殿内部の由緒書から元々この位置に鎮座していたわけではなかったことがわかったので、少々思い過ごしなのかもしれません。 |
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