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もし黒川郡大和町宮床(みやとこ)に伝わる淳和天皇伝承が事実であれば、また、信楽寺(しんぎょうじ)の五輪塔付近の発掘成果が、その伝承にリンクするものであれば、最早この地は大伴氏の単なるフランチャイズの域を超えていると言えます。 淳和天皇が、国家反逆罪の汚名でも着せられていたのであれば、遺骨と言えどはるか遠い陸奥国に配流、ということもあろうかと思いますが、少なくとも表向き、そのような顛末は史料から見出せません。 しかし、その皇子、恒貞(つねさだ)親王については「承和の変」でまんまと陥れられたことが明白です。恒貞親王は公式な犯罪者、かつ十分に“怨霊候補”と言えます。 そして、それら一連の変事は、結果的に大伴氏を没落させました。 ひとつの判断基準として、“慈覚大師円仁開基伝承”というものがあります。 東北地方の円仁開基伝承地には、なにかしら隠蔽ないし供養したいと願う中央の意思が反映されている可能性が高いからです。――拙ブログ書庫「慈覚大師円仁の戦後処理」参照―― 黒川郡の今はなき大寺院「信楽寺(しんぎょうじ)」もその例にもれません。このことは逆説的に信楽寺がタタリを為しかねない某かをはらんでいることを想像させます。 さて、怨恨に満ちた主人公の遺品は、どのように供養されるべきでしょうか。やはり、最も安らぐ場所で、親族に供養されることが最良ではないでしょうか。 だとすれば、仮にも上皇なり皇太子なりの遺骨をわざわざ運んできて供養するような陸奥国黒川郡――伝承と発掘成果からの私の想像ですが――とは、一体どのような場所と考えられるでしょうか。淳和天皇親子にとって、そもそも黒川郡が縁の深い地であった、ということでしょう。黒川郡は大伴氏自体にも深い縁がある地であり、特に大伴親王あらため淳和天皇にとってはその傾向が強かったのではないか、と考えるのです。 大胆な妄想を述べるならば、淳和天皇――大伴親王――や多賀城に赴任した大伴氏の多くは、この地の黒川郡靱大伴(ゆげいおおとも)連の血統が輩出した人物だったのではないでしょうか。 宮床七つ森付近の原風景
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大伴一族
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先日信楽寺に行って参りました。
五輪塔は今様が前におっしゃっていましたが、多分崩れたままになっていますね。パーツを確認できるだけ確認して写真を撮ってきました。(ちなみに今一つだけ小さい塔になっていますが、あれも寄せ集めを重ねたように思いました)。
それから只野さんの本に掲載されている写真も確認しましたが、あの写真自体、崩れたものをただ積み重ねたものだと思います。
石の数と形が合わないと言いますか・・・もっとたくさんあったものの断片を重ねています。 今まで形から年代特定をするという見方をしていなかったので、今手元に資料がなくちょっと調べられないのですが、パーツの形状からして、時期的に2種類ありそうです。
そのうちの片方に関しては上二つ、風輪と空輪がつながっている形なので、地輪四角、水輪丸の上に火輪三角が傘のように大きめにあり、その上にふたのように風輪と空輪がある、4つの石が重なった形ではなかと思いました。ぱっと見た感じ。
もう一つは空輪の形からしてかなり古いのではないかと思いました。すぐには調べられないのですが、近いうちに何かわかりましたら、またお知らせいたしますね。
2009/5/17(日) 午前 11:41 [ - ]
行かれましたか!
それにしても、さすがですね。素晴らしいプロファイリング(?)能力に舌を巻いております!
私もあの後、再度崩れた五輪塔を確認しに行きました。しかし、私にはさっぱり検証できません。
もちろん、五輪塔自体が平安時代のものとは考えておりませんが、いつ頃のものなのか――廃仏毀釈にからみ、明治のような気がしております――、あるいはどんな性格のものなのか、もしおわかりになれば是非お教え願います。
今後も、私に解読の出来ないものの検証をふってしまうかもしれませんが、何卒よろしくお願い致します。
心強い味方が現れた気分です!
2009/5/17(日) 午後 0:26