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「藤原経清(つねきよ)」の義理父でもある東夷の酋長「安倍頼時(よりとき)」亡き後、その息子「安倍貞任(さだとう)」、つまり経清の義理兄が安倍家の棟梁として一族を引っ張っていきます。貞任は「黄海(きのみ)の戦い」の発端となった人物です。 安倍頼時の息子たちは、各々その本拠地――居城?――に応じた名前で呼ばれていたようです。史料により多少の違いはあるのですが、概ね次のような感じです。 「安東太郎井殿盲目」「厨川次郎貞任」「鳥海三郎宗任」「黒沢尻五郎正任」「北浦六郎重任」「鳥海弥三郎家任」「白鳥八郎則任」あるいは「白鳥八郎行任」など。 ここで、宗任や家任に「鳥海」が、則任や行任に「白鳥」が冠されていることに注目しておきたいと思います。何故そのような名前の城柵があったのかが気になるところです。 さて、安倍氏は、源頼義と、その子で後世の源氏からカリスマ性をもって崇められる“八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)”――源義家――によって滅ぼされたように見えますが、厳密には出羽の豪族「清原武則(たけのり)」の活躍によるところが大きかったように思います。 源頼義・義家(よしいえ)親子は、自らが率いる朝廷軍単独ではどうしても勝てなかった安倍氏を、安倍氏同様、出羽の「俘囚の長」と微妙な評価をされていた清原氏の援護射撃を得ることで倒すことが出来たのでした。 援護射撃と書きましたが、具体的な実働部隊はほとんど清原氏であったと言って良いかと思われます。源氏親子は、広義での蝦夷を内部から崩壊させたと言っていいかもしれません。 いずれ、この安倍氏討伐の一連の戦争を「前九年の役」といいます。 ここで注目すべきは“役(えき)”という言葉です。 戦争を表す言葉として「役」の他に「乱」「変」などがありますが、「乱」というのはいわゆる反乱です。つまり、官軍が反乱軍と戦ったものをそう呼びます。 「変」というのは、天皇家や将軍家の内部抗争など、お互いが官軍と思しき場合、あるいはそれをもって官軍の立場が入れ替わった場合などに用いられます。 それに対し、「役」というのは、対外戦争を指す言葉です。 「前九年の役」や、その後清原氏が討伐される「後三年の役」は、「役」なのです。すなわち対外戦争の扱いだったということです。大和朝廷から見て、安倍氏や清原氏は外国人の扱いだったことが、これでわかります。 さて、津軽発祥の藤崎氏――安東氏――の系図では、前九年の役で安倍氏滅亡の際、酋長貞任の子「高星(たかあき)」が津軽に落ち延びたとされております。 一説に高星は、その後藤崎氏あるいは「安東太郎」を名乗ったといいます――秋田系図では、安東太郎を名乗るのは、高星4代孫の愛季(よしずえ)からとなっております――。 海の王者、安東氏の本拠地「十三湖」 ちなみに、蝦夷のデビルマン藤原経清の子――貞任の甥――は、母方実家の滅亡と父経清の惨い斬首刑の後、母と共に敵方である清原氏に引き取られました。 母はよほどいい女だったのでしょうか。罪人の妻にもかかわらず、清原武則の後継者武貞の正妃として迎えられているのです。 その母子は安倍一族と藤原経清の悲願を孤独に受け継ぎ、やがて子は陸奥・出羽統一の王者、つまり奥羽の王者として100年の栄華を築くことになるのです。 つまり経清の子とは奥州藤原初代「清衡(きよひら)」です。 藤原清衡が眠る中尊寺金色堂覆堂
あわよくばなのですが、私は清原氏も奥羽の名族の一として、奥州藤原氏の成立を念願していたものと想像したい部分があります。要するに、自分達や安倍氏の血筋ではなんともならないものが、藤原氏の血が取り込まれたことによって、蝦夷による奥羽の統治が可能なのではないか、と考えたということはなかったのでしょうか。仮にも逆賊安倍の娘とその子を引き取って厚遇したのは、清原氏のそんな思いの表れではなかったのかなあ、と考えたりもしております。 |
トビの一族
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今日から読み始めた推理小説「浅見光彦シリーズ」作品が十三湖あたりで、安東氏の拠点とあり、記事を拝見してその写真もアップなさっていたので嬉しいです。
2009/6/6(土) 午後 10:49 [ - ]
このあたりは、しじみ汁も名物です(笑)。
写真を見ていただければわかると思うのですが、私が訪れたとき、潟湖はだいぶ干上がっておりました。かなり浅い湖のようですね。
2009/6/6(土) 午後 10:57
はじめまして!
勉強になります。だいぶ日が経ってからのコメントすいません。特にこの記事に感銘を受けました。
>それに対し、「役」というのは、対外戦争を指す言葉です。
>「前九年の役」や、その後清原氏が討伐される「後三年の役」は、「役」なのです。
>すなわち対外戦争の扱いだったということです。
>大和朝廷から見て、安倍氏や清原氏は外国人の扱いだったことが、これでわかります。
鎌倉時代に元軍が攻めてきたときは、
文永の役、弘安の役ですからね、なるほど!
オラは、かつて大和朝廷・源氏といった大和民族と戦った蝦夷の子孫であることに誇りを持っています。
今後ともよろしくお願いします。
2009/6/26(金) 午前 0:31 [ 佐藤えみし ]
んだべさん、はじめまして!
もったいないご評価、ありがとうございます!
厳密に言いますと、「役」などの表現の区別をしたのは明治政府のようですので、必ずしも朝廷がそう定義したというわけではないのですが、逆に言えば戊辰戦争の影響があったとはいえ、明治になっても東北地方に対してそういう差別意識があったということですから、古代においては推して知るべしですよね。
んだべさんはハンドルネームからしてしっかり東北人を彷彿とさせますので、うれしいです。東北人は自分達の訛りを恥ずかしがる傾向がありますからね。
お互い東北人の誇りをもっていきましょう(笑)。
今後共よろしくお願いします。
2009/6/26(金) 午後 7:26