|
高橋富雄さんは『蝦夷(吉川弘文館)』の中で、大化前代までに行われていた古代氏族のごく自然な無理のない平和的な殖民について「文化征服」と命名しております。そして次のような現象について触れております。 ――引用―― 奈良時代になって、蝦夷出身と思われる土豪たちが、大量に中央の貴氏名に改氏姓するのであるが、それはほとんど、毛野・阿倍・大伴三氏に限られていること、改氏姓前にすでに、そのような氏族とあるつながりがあるらしく、毛野氏へは吉弥候部(きみこべ)から、阿倍氏へは丈部(はせつかべ)から、大伴氏へは大伴部から、という対応関係が認められるから、このような氏族たちと、現地とのつながりは、おそらく大化前代まで、さかのぼるものと思う。 補足しますと、逆に、毛野氏の植民地は吉弥候部、阿倍氏のそれは丈部、大伴氏のそれは大伴部と呼ばれていたということです。 さて、ここでは阿倍氏に注目しているわけですが、何故阿倍氏の部民がハセツカベと呼ばれたのかといいますと、四道将軍の「武沼川別(たけぬなかわわけ)命――中央の阿倍氏の祖――」らが北上してきた際、その“馳せ使い”として服属した蝦夷であることに因むようです。 なにより、阿倍に“部”がついては阿倍部(あべべ)になってしまい、韻として単純に“変”だということもあるようです――・・・あのカリスママラソン選手の立場は・・・――。 さて、『続日本紀』には、神護景雲3年3月13日に陸奥国白河軍の人で外正七位上の丈部子老(はせつかべのこおゆ)と、賀美(かみ)郡の丈部国益(くにます)、標葉郡の正六位上の丈部賀例怒(かれの)ら10人が「阿倍陸奥臣」の姓を、安積郡の外従七位下の丈部直継足(あたいつぐたり)が「阿倍安積臣」の姓を、信夫郡の外正六位上の丈部大庭らが「阿倍信夫臣」の姓を、柴田郡の外正六位上の丈部嶋足が「阿倍柴田臣」の姓を・・・というように、有力な丈部の人達が一斉に「阿倍姓」を賜ったことが記録されております。 その後にも――他の氏族も含めて――氏族名を賜る記事をよく見受けられます。 これらは部民たちが進んで願い出たもののようです。どうもこれらには切実な事情があったと考えられます。『白鳥伝説(小学館)』の谷川健一さんは興味深い見解を示されております。 ――引用―― しかし丈部が自己の氏姓を嫌悪したというのは、陸奥国の場合、もっと深刻なものがあったと想像される。それは丈部という姓には、自分が蝦夷の出自であるという烙印が押されていると思うものがあったのではないかという点である。 〜中略〜 大胆な憶測をこころみれば、中央の貴族である阿倍臣にはかつて蝦夷の血が流れていたとみなし、そこに血脈をおなじくするものへの同族意識が丈部の方に働いたのではなかろうか。 宝賀寿男さんは、鹽竈神社のアベをこの丈部系のアベではないかと考えております。とすると、奥州安倍氏を思わせる「あへあんたう――安倍安東――」とはどう関係していくのでしょうか。それについては後に触れたいと思います。
|
全体表示
[ リスト ]



