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宝賀寿男さんは、石城(いわき)――磐城――国造家に連なる丈部系安倍氏と安倍貞任一族を同族と考えておりましたが、その仮説を援護射撃するような伝承もあるようです。 『よみがえる史上最高の名僧 徳一菩薩(いわきふるさとづくり市民会議)』の著者、菊地勇さんは、北茨城といわきの坂上田村麻呂伝承がある寺社について調べ、その伝承に触れるくだりで、次のようなことを書いております。 「共通して特異なことは、陣立して菊多の里から戦闘を開始したと伝えることです。この伝承を信じるとすれば、一〇六二年代に、いわきは安倍一族に味方していたことになるわけです」 菊多とは、茨城県と福島県の境のことです。 しかし、これは安倍貞任一族の勢力圏が後の奥州藤原氏のように現在の東北地方全体に及んでいたというよりも、「石城(いわき)――磐城――」という地盤が貞任一族らに加勢したと捉えておく方が穏当なのではないでしょうか。そうなると、この解釈は宝賀さんの仮説と符号し、かつ補強することになります。 初代国造墓が神社となったという磐城国造神社 さて話しは変わりますが、大正15年に國幣中社「志波彦神社・鹽竈神社」社務所から発行された『鹽竈神社史料』――宮司山下三次さん編著――には、当時の全国の鹽竈神社リストや都道府県別の集計表などがあります。私が和歌山県和歌浦の鹽竈神社に「はてノ鹽竈」伝承があることを知ったのもこの史料集からでした。 同書の統計表にて確認できる範囲では、当時、鹽竈神社は全国に111社ありました。都道府県のランキングにすると、最多が福島県と香川県の17社、続いて岡山県の9社、新潟県・徳島県7社、長崎県6社、愛知県5社という順になります。そしてなんと本場宮城県はそれらに続く山口県と同数の4社で、辛うじてベスト10に入っている程度なのです。 鹽竈神社の性格上、当然に製塩のさかんな場所で祀られる傾向があり、上位の都道府県はさすがにいずれも海と密接な印象を受けます。それにしても福島県と香川県の17社は、続く岡山県のほぼ2倍の数字ですので、もはや偶然の為せる業ではないでしょう。かなり特異な印象を受けます。 また、第三位の岡山県について補足すれば、これは瀬戸内海をはさんだ香川県と不可分のエリア、しいて命名するならば備讃エリアとでも呼ぶべきで、両県合わせると26社という圧倒的な鹽竈神社集中祭祀地区となります。 ただし、福島県と備讃エリアの集中理由は、各々性質の異なるものと考えられます。 それを語る前に、鹽竈神社の性格が持つ宿命的な特殊性に触れておかなければなりません。そのあたり、元宮司の押木耿介さんの説明がわかりやすいので、少々長い引用で恐縮ですが押木さんの著書『鹽竈神社 (学生社)』の一文を紹介しておきます。 ――引用―― 森鴎外の名作『山椒太夫』で知られる安寿と厨子王の物語には、丹後由良の長者山椒太夫に売られた安寿姫が塩田の汐汲を強いられ、弟厨子王は柴刈をさせられる。この山椒が「散所」の意であることは、林屋辰三郎氏が詳述されている(『古代国家の解体』)。 すなわち散所とは、領主の支配を受け、税としての地子(ぢし)を収めなければならない一般領主にたいし、地子を免除された荒地や河原、また農民の逃亡などによって地子を納められなくなった散田などをさす。ここは荘園領主にたいして封建的な耕作農民として従事した者や、名手として成長していった一般農民とは別に、年貢の重圧にたえかねた逃散農民や浮浪の民がかかえられ、かれらは奴隷のように行動の自由をうばわれ身柄を拘束されて領主の支配を受けた。そのためにいっけん地子の負担から逃れたようにみえるものの、後世まで奴隷のごとき賤民的境遇にあり、年貢の輸送や、塩田耕作に従事させられたのであった。 これら賤民の支配者として散所太夫があったわけで、暴力や人身売買もする非情の人だったのである。こうした塩田の生産形態は支配者が郡司であれ、土豪であれ、戦国大名であれ、基本的にはうけつがれてゆき、製塩労務者を雇い入れるための労働市場が、塩田に近い神社や寺院の境内に設けられる習慣は、近代までみられたのであった。製塩労働がきわめてきびしいものであり、またそれに従事した人たちが賤民的階層に多かったことが知られるのである。このことは、鹽竈神社の性格を論ずるさいに考慮しなければならない点ともなろう。 つまり、鹽竈神社は、特に賤民的階層からの信仰が篤かったと察せられます。 押木さんはそれらを踏まえて、且つ全国的に鹽竈神社の社格が総じて低いことに注目し、 「鹽竈神社が朝廷や国家に関与することがきわめて薄く、その信仰者が土着の民にあったことを思わせるのである」 と、重要な指摘をしております。
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アベと鹽竈
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