はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

鹽竈神社の謎 検証編

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和歌浦の女神

 ここに私は一つのことを想像します。
 紀州和歌浦「鹽竈神社」の“はてノ鹽竈伝承”の“13”の意味は、和歌浦の鹽社の本来の祭神“瀬織津姫”の隠蔽の示唆ではないでしょうか。
 前に触れた『田村麿三代記』『東鹽家文書』の示唆から、奥州の鹽社にも瀬織津姫の面影はちらほらと見受けられます。おそらく瀬織津姫が祀られていた時期、あるいは水面下でそう思われていた時期は間違いなくあったのだと思います。
 ところで、紀州和歌浦の鹽社について私は玉津島神社そのものであっただろうと考えておりますが、その玉津島神社は、境内にあった由緒略記を信じれば、神代以前、下っても神功皇后以前には存在していたことになり、相当に古い歴史を持ちます。
 念のため、オフィシャルガイドである『玉津島神社 鹽竈神社 ご由緒』より、玉津島神社の由緒を記しておきます。

――引用――
玉津島神社
○鎮座地 和歌山市和歌浦中三丁目四番二六号
○祭 神 稚日女尊(わかひるめのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)
       衣通姫尊(そとおりひめのみこと)、明光浦靈(あかうらのみたま)
○創 立 上 古
○例祭日 四月十三日
  御由緒
 ●玉津島一帯は、また玉出島ともいわれ、いにしえ島山が恰も玉のように海中に点在していたと推察され、かの山部赤人の賛歌に、「神代より然ぞ貴き玉津島山」と詠まれた如く、風光明媚な神のおわすところとして崇められてきた。
  玉津島社の創立は極めて古く、社伝によれば
  「玉津島の神は、『上つ世』より鎮まり坐る」とある。
 ●稚日女尊は、諾・册尊の御子であり、天照大神の御妹に当たられ、後世またの御名を丹生都比賣神(にふつひめのかみ)と申し上げる。
  息長足姫尊は即ち神功皇后(じんぐうこうごう)である。皇后が海外に軍をおすすめになられたとき、玉津島の神(稚日女尊)が非常な霊威をあらわされたため、皇后これに報われ、御分霊を今の和歌山県伊都都郡かつらぎ野天野の地にお鎮め申し上げ、爾来 玉津島・天野に一神両所に並び立ち、毎年天野の祭礼に神輿がはるばる天野から玉津島に渡御する所謂『浜降りの神事』が應永の頃(一四二九年)まで行われた。
  玉津島の神を尊崇せられた皇后は、後に卯の年月にちなみ、御自身も玉津島に合祀せられることとなった。
  〜以下省略〜

 玉津島の神――ワカヒルメ――は、神功皇后の海外遠征に霊威をあらわされたとのこと。そういえば『先代旧事本紀大成経』の鹽竈神――長髄彦――も同様でした。
 それはともかく、紀州鹽社――輿の窟・おそらく玉津島社の元社――は、現在においてすら確実に“瀬織津姫”を祀っております。これが神功皇后以前からのものであったとするならば、なるほど、少なくとも、その女神を祀る神社としては奥州の鹽社に対して先輩にあたることでしょう。何故なら、後に触れますが、仮に奥州鹽社に瀬織津姫が祀られていたのだとしたら、おそらくそれは郡山官衙――多賀城の前身――あるいは多賀城創設の頃からではないか、と考えられるからです。

発掘調査が進む郡山官衙跡――仙台市太白区あすと長町――
イメージ 1

 さて、江戸時代に入り、奥州の鹽社は鹽土老翁の社として新たに生まれ変わりました。今度はここを震源地にして鹽土老翁ブランド鹽社の全国チェーン展開の波が広がりました。そして紀州の輿の窟もそのチェーン店に変わったのです。
 つまり、瀬織津姫が鹽竈大神に塗り替えられた歴史、それこそがはてノ鹽竈伝承の語る13という数字の意味ではないか、と想像するのです。

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