はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

全体表示

[ リスト ]

 伊達政宗は徳川家康の承認の元、家臣の支倉常長をヨーロッパに派遣しました。そのときに、政宗はちゃっかり自らを「奥州国王」と表現した書状をしたため、使節である常長に密命を託していたのは有名な話です。何故そんなトップシークレットがあからさまになったかというと、ヴァチカン側にその書状が残っていたから――私の記憶に間違いなければ明治以降に発覚――です。いずれ、当然家康はこのことを知らずに世を去っております。
 ちなみに、私は仙台市博物館でこの書状を拝見しました。常設展であったかどうかは恐縮ながら記憶が曖昧なので、現在見学に行かれてもこれを見れるかどうかは保証出来ません。
 さて、この書状は政宗がローマ法王に対し、当時世界最強とまで言われた強大な軍事力を誇るイスパニア――スペイン――との通商の取り次ぎを依頼するもので、内容としては国家間の条約を思わせる提案でした。おそらく政宗にはその意識があったことでしょう。政宗が自らを“奥州国王”と名乗っていることもその一つの傍証と言えると思います。政宗は、自由貿易の見返りとして自国内でキリシタンを保護しましょう、と約束しております。
 これについては、そうやってイスパニアと組んで徳川幕府を倒そうとしたという説が有力です。
 しかし、私は微妙に違うと思うのです。おそらく政宗は、日本の天皇に対し朝貢する奥州国という独立国家を築き、徳川家と対等、あるいはそれ以上のレベルで自らの政治を行おうとしていたのだと思っておりますので、徳川を倒すというのではなく、牽制する目的でヨーロッパ勢力を後ろ盾にしようとしていたと思うのです。
 おそらく政宗は、その前段階として、徳川将軍に対する執権の地位を確保しようとしていたのではないかと想像します。
 さて、瑞巌寺には実に面白いものが残っております。

 「御成門(おんなりもん)」「御成玄関」そして「上々段の間」です。

 実は同じものが仙台城にもあったのですが、仙台城の建物はほとんど現存しておりませんので、残念ながら今となっては間取り図面と、この瑞巌寺の現物を見てイメージするしかないのです。

瑞巌寺御成門
イメージ 1
イメージ 2
御成玄関
イメージ 3

仙台城案内図
イメージ 4
イメージ 5

 瑞巌寺を案内するガイドさんは、「ここは天皇陛下を招いたときだけに利用するものです」などと、さらりと言ってのけておりますが、これはものすごく驚くべきことのはずです。少なくとも私は、こういった行幸――天皇の外出――に備えた施設がある建築物というものを、例えば織田信長の「安土城」や徳川幕府の「二条城」など、天下人のものしか知りません。
 将軍家の本拠「江戸城」への行幸ですらあり得ないのに、外様大名が天皇を自分の城や寺院に呼びつけるなどと、狂気の沙汰以外なにものでもありません。これがいかにとんでもないことであったのかを政宗は知らなかったのでしょうか。いやそんなことはありません。それどころか、どうやら他の誰よりも認識していたようなのです。
 NHK大河ドラマからの知識で申し訳ないのですが、『葵三代』でこんなシーンがありました。
 三代将軍家光が、絶頂期にあった徳川幕府の威厳にうぬぼれて天皇家を軽んじ、若気の至りとでもいうのでしょうか、江戸城に呼びつけようとしました。さすがに父親である大御所秀忠が困惑してしまい、この件を政宗に相談したのです。そこで政宗は「それはとんでもないこと」として、折衷案を出します。せめて江戸城ではなく、京の二条城に行幸を願うというのです。それであれば、将軍は“京に上る”という体裁になり、一方天皇も“将軍家の城に行幸する”という絶妙なバランスになるわけです。
 この話は、大河ドラマの脚本上のものだけではなく、どうやら実際にそういった逸話が伝えられていた、と、ドラマのガイドブックに書いてあったのを見た記憶があります。曖昧な出典ですみません。
 いずれ、これが本当であれば、あの野心家政宗が、将軍家光以上に天皇家を重んじていたことがわかります。
 将軍に対してこんな提案をするほどの政宗が、一方で自らの城や寺に天皇を招く準備をしているというのはどういうことでしょうか。
 これは、「天皇とその臣下」という“親子の関係”から、将来的には対等とまで言わずともせめて“兄弟の関係”になることを見据えた政宗の心理の表れかと思うのですが、いかがなものでしょう。


※平成25年1月26日追記
 将軍家の二条城上洛への伊達政宗の関与について、NHK大河ドラマ『葵三代』の上記逸話のモデルになったであろう記録を見つけました。

――引用:『奥羽観迹聞老志補修篇』――
中将綱村朝臣か藩の秘事を記し置かれたる『天文道三箇秘録』と云書に據るに。政宗卿嘗て尊王の大義を説きて。将軍秀忠公を極諫せられし事あり。爾来幕府の皇室に對する敬禮供御等大に面目を改む。寛永三年前将軍秀忠公。将軍家光公上洛の時。政宗卿も倍せられ二条城行幸あるに及びて。卿は権中納言に進められ。此時特に聖旨を以て寮の御馬に紫の厚總懸けて卿に賜はり。同時に菊桐の御紋をも勅許ありきと。此異常なる天恩は不言の中に前の諫言に酬いられしとぞ推測奉る。

 それにしても、藩の秘事を記し置かれたる『天文道三箇秘録』が気になります。

閉じる コメント(1)

顔アイコン

将軍家の二条城上洛への伊達政宗の関与について、NHK大河ドラマ『葵三代』の上記逸話のモデルになったであろう記録を見つけましたので、記事末尾に追記しました。

2013/1/26(土) 午前 10:21 今野政明


.

ブログバナー

検索 検索
今野政明
今野政明
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事