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見えない力で天智天皇系に戻されてしまった皇統のなかで、天武系最後の天皇になったのは称徳天皇――孝謙天皇――という女帝でした。 持統天皇以降、外戚として政権を握らんとした藤原氏は、時に暗殺も辞さない強引な手口で、自家の血をひくもののみが天皇になれるという暗黙のルールを定着させておりました。自家の血をひく男子が生まれない場合は、つなぎの女帝をたてて機を窺ったのです。そのような流れに楔を打つべく立ちあがった長屋王は、結局は死に至らしめられました。しかしその怨念は死して尚そのままでは終わらず、黄泉の国から自分を陥れた藤原四家の祖全員を祟り殺したのです。科学的に言えば、たまたま天然痘の流行で全滅しただけなのですが、古代においてはとてもそうは考えられません。ましてや、後ろめたさを持っている人間たちにすれば、これは祟り以外のなにものでもなかったのです。兄達を祟り殺された光明皇后――藤原光明子――は、間違いなく恐怖のどん底にいたはずでしょう。そして、そんな光明皇后と聖武天皇の間に生まれた子が、阿倍内親王、すなわち天武系最後の天皇となる称徳天皇――孝謙天皇――だったのでした。 実は、決して聖武天皇に他の男子が授からなかったわけではないのです。基(もとい)親王と安積(あさか)親王という男子がおりました。基親王は光明皇后との間の子であったので、藤原氏の血もひいており当然に皇太子に立てられたようですが、生後1年足らずで亡くなってしまいました。これについても長屋王の祟りだと捉えたことでしょう。 また、安積親王もその翌年亡くなりました。 しかし、実はこの安積親王の死についてはなにやらきな臭い噂もあります。彼は藤原氏の血ではなかったが故に毒殺された、という言い伝えがあるのです。黒幕は藤原仲麻呂とも言われております。 ちなみに、この仲麻呂こそが、会津の僧徳一の実の父親と言われている人物です。 それはひとまずおいておき、ここで最後の手段、阿倍内親王が史上初の女性皇太子になったのでした。 そしてこのことは、一女性としての彼女にとって、おそらく絶望に近いものであったと思います。何故なら、彼女はこれでもう結婚出来ないのです。これは同じく女帝であった元正天皇の頃から出来た暗黙のルールのようですが、女帝に夫がいては、天皇を支配する存在がいることになり、忌々しき問題であると認識されていたからと考えられます。 女性が強い現代ではあまり考えられませんが、この当時妻は夫に支配される存在という認識はごくあたりまえのことで、それでこのようなことになるのでしょう。 また、一方で、男系天皇と藤原系皇后の間に出来た皇子だけが天皇になれる、という不文律のルールも陰でのしかかっていたようです。 誰がどう見ても欲求不満になりそうな人生を余儀なくされたおかげで、称徳女帝は藤原仲麻呂や怪僧道鏡との愛人関係を疑われ、後世に淫らで傲慢な悪女の印象を残すことにもなっていくのですから、私はかさねがさね同情します。 彼女は間違いなく自分の血を呪っていたことでしょう。彼女ほど自分の血統をぶち壊してやりたいと思った天皇はいなかったのではないでしょうか。 天平勝宝元年(749)孝謙天皇として即位した彼女は、母光明皇后の甥であり、且つ信任の厚い藤原仲麻呂を後見人のようにして政治を執り行いました。 その当時、わずかに勢いの衰えた藤原氏の間隙を縫って、「橘諸兄(たちばなのもろえ)」が権勢を強めておりました。 諸兄は、自分の政治を批判し屈強な九州軍団を率いて挙兵した大宰府の役人「藤原広嗣」を鎮圧するなどして、益々力を強めておりました。 そこに「藤原仲麻呂」が登場したのです。当然、諸兄とうまくいくわけがありません。そもそも諸兄は藤原四兄弟が祟り殺された後、おそらくは聖武天皇の“脱藤原氏政策”に基づいて起用された重臣で、生前に正一位まで昇進するという史上稀な人物でした。 私はここに、弱気と評される聖武天皇の強い意志を垣間見る気がします。 しかし、この諸兄は、仲麻呂が起用されて数年後、聖武上皇が病に伏した折、酒の席で不敬があったとの讒言により失脚することになりました。私はこれを仲麻呂が仕組んだ罠であったと想像します。藤原氏の手口は万事この調子だからです。 仲麻呂は、聖武上皇崩御後、上皇がたてた皇太子「道祖(ふなど)王」を廃して、自分に近しい「大炊(おおい)王」を立太子させ、律令にない紫微内相という官職を新設して自ら就任し、天皇側近の軍に対する指揮権も掌握しました。 この専横に対して、諸兄の子橘奈良麻呂が反乱を起こします。家永三郎さん編『日本の歴史(ほるぷ出版)』には次のようあります。 ――引用―― 〜橘奈良麻呂は、仲麻呂を暗殺して、孝謙天皇をやめさせようとくわだて、古くからの名門貴族である大伴氏、佐伯氏、多治比氏がこれに参加した。しかし、密告によって、これを知った仲麻呂は、圧倒的に優勢な武力でいっせい検挙し、はげしい拷問を加え虐殺した。 758(天宝宝字2)年、藤原仲麻呂は、右大臣にあたる太保(たいほ)に進み、大炊王が即位した(淳仁天皇)。さらに、2年後の春には、従一位=太政大臣(太師)という最高の地位が55歳のかれにあたえられた。 その間、かれは、たくみな政策をつぎつぎとうちだして、律令制の手直しをはかり、橘奈良麻呂のような反対派と、班田農民の不満とがむすびつかないように巧妙な手をうった。 太保に進んだころ、仲麻呂は天皇から恵美押勝(えみのおしかつ)という新しい姓名をうけ、さらに、その功績にたいして、封戸3000戸と功田100町という、曾祖父鎌足と祖父不比等をしのぐ恩賞をさずけられた。 この一連の事件を機に、孝謙天皇は退位し、仲麻呂が立てた大炊王に譲位します。淳仁天皇の誕生です。孝謙天皇は上皇となりました。一見、この頃の孝謙天皇は仲麻呂と蜜月の関係にも見受けられますし、事実、そのような説が大勢を占めております。
しかし、私の中ではどうにも胡散臭さが残ります。 私が疑問に思うのは、そもそも奈良麻呂は、仮に仲麻呂を暗殺しようとは考えても、孝謙天皇を失脚させるつもりがあっただろうか、ということです。 たびたび申し上げているとおり、この日本であからさまに天皇に敵対することは、まずあり得ません。百歩譲って、よっぽど絶対的な軍事力を掌握して初めて可能性が見え始めるレベルなのです。奈良麻呂はどうだったでしょうか。結果からみるに、奈良麻呂の反乱軍は仲麻呂の圧倒的軍勢によってあっけなく鎮圧されているのです。なんというお粗末な策略だったのでしょう。奈良麻呂や名族大伴氏は、はたしてそんなに間抜けなのでしょうか。 いずれ、仲麻呂はこの功で孝謙天皇から高く評価され、恵美押勝という美称まで賜っております。もちろん私にはどうにもしっくりきません。孝謙天皇の心理状態を推測するに、そのようなことは考えにくいからです。 おそらく、孝謙天皇自体が狙われているという情報は、仲麻呂の捏造ではなかったかと考えます。そう吹聴することによって孝謙天皇を味方に巻き込んだのでしょう。 仲麻呂は、奈良麻呂が自分を恨みに思う気持ちをこれ幸いとして利用し、謀り、大伴氏やその同族の佐伯氏といった野党になり得る古代氏族を徹底的につぶしに行ったのだと思います。 またこの頃、まだ光明皇太后は存命中でしたので、孝謙天皇はまだ実質的に機能していなかったと考えられます。 そして、父である上皇亡き後は、おそらく母の言うとおり、つまり間接的に仲麻呂の言うとおりに動いていたと思われ、むしろ、再び暗躍する藤原氏にとてつもない不安感を感じていたのではないでしょうか。孝謙天皇――称徳天皇――の、その後一転しての徹底した専制方針を見れば、私にはそうとしか思えません。その専制方針も一応は怪僧道鏡がたぶらかしたかのように伝わっておりますが、道鏡は称徳天皇のそもそもの深層心理に潜む大きな鐘の音を鳴らしただけに過ぎないと私は考えます。 しかし、光明皇太后存命中の孝謙天皇――上皇・称徳女帝――は、まだおとなしく母の言うとおりにしていた一人の娘に過ぎなかったことでしょう。 しかし、人間には寿命があります。やがて、孝謙上皇の頼みの綱であった母、光明皇太后が60年の生涯を終えました。孝謙上皇は相当ショックだったのでしょう、その直後に病に伏してしまいます。 そこに看病僧として現れたのが、怪僧「道鏡」だったのです。 いよいよここから孝謙上皇の自分の忌まわしき人生への反撃が始まります。 |
宇佐にまつわる話
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天武系天皇は持統系天皇と言ってもいいのではと思っております。
まあ、男系の遺伝子からみると、もちろん天武系ですけれども。
諸兄はバックにやはり母三千代がいたのではいなかと思うのですが…。
母と同じ橘姓を名乗るメリットってその辺ではないかと思いまして。
光明子にとっても諸兄って異父兄ですよね。
この時代はある意味、母が強い時代だったのかも知れませんね。
持統天皇、元明天皇、橘(県犬養)三千代。
そして独身だった元正天皇、孝謙天皇は母達の意志を受け継いだ天皇という存在だったのかも知れないなと。
道鏡と出会って孝謙天皇は、そんな母達の呪縛を破ったのかも知れないなどと思いました。
2009/9/16(水) 午後 6:08 [ - ]
シュミさん、ありがとうございます。
おっしゃるとおり、諸兄が三千代つながりで出世したことも事実でしょうね。
あまり意識してはいませんでしたが、たしかに母系が強い時代というのも、なるほど頷けます。もしかしたら『日本書紀』が世に出たおかげで、女神天照ブームが人臣レベルにも巻き起こっていたのかもしれませんね。
数年前の愛子様ブームでもわかりますが、今でも天皇家の出来事が庶民にブームを巻き起こすくらいですから、古代においては尚更だったかもしれません。
ところで、私も孝謙天皇はまぎれもなく呪縛に挑戦した女帝であったと思います。
道鏡がきっかけになったことも間違いないと思いますが、彼を溺愛するあまりとち狂ったかのような歴史的見解は、称徳女帝の生い立ちなりトラウマをまるで無視しているとしか思えません。儒教的偏見がもたらした女性差別以外の何物でもないと思いますね。
2009/9/16(水) 午後 7:04
私もそれに関しては同意見です。
権力者にとって不都合のものは史実上さんざんな言われ方をすると思っております。
2009/9/16(水) 午後 7:11 [ - ]
東北地方の歴史を追いかけると尚更それを実感します。
皮肉にもそのおかげでとても調べ甲斐があります(笑)。
2009/9/16(水) 午後 8:25