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宇佐八幡についての妄想といいますか、私見について、少し触れておきますと、宇佐神宮の起源としては、おそらく現在の宇佐神宮の場所に、神武天皇にとって重要すぎる何かがあったのでしょう。それは、例えばただならぬ関係者のお墓です。勝手な妄想ながらも、ほぼ間違いないだろうと思っております。そしてその墓の主に連なる氏族こそが「宇佐――菟狭――氏」であり、当初彼らはひっそりとそれを供養していたのだと思います。 宇佐公康さん著『宇佐家伝承 古伝が語る古代史(木耳社)』に、おもしろい逸話がありましたので、ご紹介しておきます。 ――引用―― 〜略〜 なにはともかくも、宇佐神宮は、九世紀のはじめに八幡大菩薩宇佐宮・比売神社・大帯姫廟神社の三社となり、世にいう八幡三所として、朝鮮様式の八幡造りの華麗な社殿の形体がととのったわけである。 ところが、この三殿のキザハシ(階段)のヒサシ(庇)は、古くから今もなお、そろってならんでいない。宇佐神宮は、三殿ならんでいる他の神社とちがって、とくに、向って左から第一殿・第二殿・第三殿となっているが、二之御殿と称する真ん中の御殿のヒサシがひっこんでいて、そのかわり申殿(もうしでん)と呼ばれる拝殿のヒサシがそのひっこんだ部分に割りこんだような形となっている。 これには重大ないわれがあるのであって、古来、三三年目ごとの式年遷宮に当っては、「二之御殿の位置をうごかすことは絶対にまかりならぬ」と口伝されている。宇佐家の伝承によると、二之御殿の真下には「みはかりいし」(御量石)という石があって 〜中略〜 この石を中心に二之御殿が建てられているわけである。 御量石という口伝の石は、明らかに石棺の蓋石である。これを実証する事実として、大正五年(一九一六年)から大正七年(一九一八年)にかけて、内務省神社局直営の本殿改築工事に際し、当時の神社局営繕課角南(すなみ)技師が派遣され、設計をはじめとして工事万端の指揮監督に当ったが、角南技師は「三殿のヒサシが乱杭歯のようになっていては体裁が悪い」といって、三殿のヒサシを一様にそろえてならべるために、二メートルばかり後ろに下げる設計をした。 これに対して、当時の宮司、筆者の父先代は、口伝を盾に取って極力反対し、原型のままの改築を主張したが、若い角南技師は口伝など信用せず、宮司と意見が対立した。そこで、結局、はたして御量石と称するものがあるかどうか、旧御殿を取り壊してから、二之御殿を真下に掘って調査することになった。 白張(はくちょう)という白(し)ら張りの布製の衣服を着た二人の白丁(はくちょう 白張を着た作業員)が、キグワという木で作ったクワで向い合って一メートルほど掘ると、かちんと音がして平らな石に掘り当たった。調査に立ち会っていた角南技師と先代は思わず顔を見合わせた。そして角南技師は「もうよい。わかった」といって調査を中止し、三殿の改築工事は原型を復元して完成した。 なんとも鳥肌ものの逸話です。私はこのことからも、やはり宇佐神宮はなんらかの最重要人物の墓であったのだろう、ということには確信に近いものを持っているのです。 例えば『逆説の日本史(小学館)』の井沢元彦さんなどは、二之御殿の祭神を卑弥呼(ひみこ)であろうとし、同時に宇佐八幡そのものを、その墓であろう、と推測しておりました。 しかし、宇佐公康さんは、そういった卑弥呼や神功皇后といった人物の墓であろうとする仮説を「主観的偏見による推理臆測にすぎず、曲学阿世の徒の詭弁である」と辛辣に完全否定しております。宇佐さんは、明言はしないものの、どちらかというと鳥居龍蔵さんの説をとっているようです。鳥居さんは、「亀山および、その周辺を探査し、三世紀初期の高塚古墳であると断定し、御量石の口伝について、この亀山古墳の上で、「くがたち」(盟神探湯)が行われていた伝承ではないかと先代に語った」のだそうです。 いずれ古墳であるからには、なんらかの墓であったという考え方は外れておりません。しかし、私も卑弥呼や神功皇后というところには行きつきません。たびたび申し上げているとおり、私は邪馬台国と大和は別物と考えており、卑弥呼はあくまで邪馬台国の女王であったと考えております。 それに対して、宇佐氏はあくまで大和――神武系皇族――となんらかの縁がある氏族であると考えます。 おそらく、宇佐神宮の地は、神武の一番最初の子をもうけた宇佐系女性の墓であったのではないでしょうか。そして、その子は神武系を継ぐことが出来なかったのだと思います。だからこそ、神武の血統はその母子に対し、後ろめたさを抱いていたとも考えるのです。宇佐神宮の当初の顔は、その母子の鎮魂でしょう。それが後世、神功皇后と応神天皇母子に置き換えられたのではないでしょうか。 辛嶋氏――秦氏――や大神氏は、7世紀〜8世紀のめまぐるしく血塗られた皇統変遷のなかで、その暗闇に宇佐の祟りをも勘繰った天皇家の意向で後から組み入れられたものだと思います。秦氏の先進的な新羅系仏教と、大和の最強のタタリ神「大物主」を奉ずる三輪系「大神(おおが)氏」のシャーマニズムの最強タッグで宇佐の母子の鎮魂を図ったのが、宇佐神宮の三つの顔の始まりではないでしょうか。 さて、妄想に妄想を上塗りするならば、私は、宇佐になんらかの強い思惑を抱く神武天皇の系列は、いずれかの時代――九代開化天皇あたりか――で一旦途切れたものの、幾度かの浮沈を繰り返しながら、少なくとも天武天皇の御代に一度復活したのではないか、と想像しております。理由は、まず、天智天皇と天武天皇がとても兄弟とは思えないこと、そして最重要案件について宇佐を頼りにした二人の天皇がいずれも天武系であること、などからです。二人とは言うまでもなく、聖武天皇と称徳天皇です。 世に有名な八幡神託とは、称徳女帝が道鏡に皇位を継承してもいいかどうかの決断を宇佐八幡の神託に委ねた一連の事件のことを言うわけですが、称徳女帝と道鏡は、どうも予め宇佐氏から確約をとった上での出来レースを目論でいたかにも思われます。
なにしろ、称徳女帝にとって重要なのは辛島氏でも大神氏でもなく、おそらくは宇佐の母子であったのでしょうから。 |
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『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』読まれたんですね〜…。
私はたてこんでいたのと、氷河期からナカナカ話題が展開しなかったことに耐えられなくて断念してしてしまいました。
宇佐神宮は1回目に何も知らずに行って、帰ってから井沢さんじゃない「卑弥呼の墓だった!」系の本を読んで、まわりの山とかもっと見ればよかった〜!と後悔しました。
2回目はなぜかマイブームが過ぎ去ってから行って(大分に行くついでなので)、それでも神託事件を友人に語りまくりました。
初めて行ったときは伊勢神宮とかにも行ったことがなかったので、その厳粛さに圧倒されました。
あそこは絶対なにかあると思うんですが、古伝書にその答えがあるわけでもないんですよね〜…。
宇佐さんは相続でモメているんですよね、確か。
2009/9/24(木) 午後 6:02
卯喜多さん、ありがとうございます。
そういえば卯喜多さんがはじめてこちらに来ていただいたのは宇佐関連を調べものをしていてのことでしたよね。
卯喜多さんの行動範囲はすごいですね!
恥ずかしながら、私は伊勢も宇佐も行ったことがありませんので、全て仙台にいながらでも収集できる情報の範囲と、そこからの自分なりの見解です。つまり耳年増なのです(笑)。
本当はあまり宇佐の話にはまりたくないのですが、どうにも避けられず、いつ襲いかかってくるかわからない第三者からの鋭い指摘に怯えながら書いております(笑)。
それにしても、相続でもめているというのは、不躾ながらちょっと興味深いですね。
2009/9/24(木) 午後 6:53