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冬のある日、奥州藤原氏の系図を見ておりましたら、どうにも気になることが出てきました。以前から気にはなっていたものの、それまでとくに深く考えてみたことはありませんでした。 もろもろの史料によれば、三代秀衡の母親――二代基衡の妻――は「安倍宗任の女(むすめ)」ということになっております。 しかし、よく考えると、そのつじつまを合わせることにはとても苦労するのです。安倍宗任は、秀衡の曾祖父――基衡の祖父――経清と同時代に活躍していた人物であり、その娘ということであれば、代としては秀衡の祖母にあたるわけです。 さしあたり、秀衡の没年と年齢はわりとつかみやすいので、そこから追ってみました。秀衡が生まれた年は推定ですが西暦1121年頃と思われます。宗任が源頼義・義家親子に投降したのが1062年ですから、秀衡はその59年後に生まれたということになります。 はたして、秀衡の母は宗任が投降した時点では生まれていたのでしょうか。 生まれていれば、秀衡を59歳以上の年齢で生んだことになります。 しかし、なにしろ人間50年時代の59歳です。このセンはなかったと考えたほうが賢明でしょう。ということは、彼女は宗任が流罪にされてから生まれた娘だったということになります。 ところで、宗任自身は投降時点で何歳だったのでしょう。 「鳥海の柵」を任せられていたくらいですから、おそらく前九年の役(実際は12年)の開戦時には出陣していたことでしょう。仮に戦の始まりの際に15歳くらいで初陣だったとしても、終戦時には27歳くらいになっていたということになります。 それにしても59年とはずいぶん長い時間です。仮に宗任の娘が秀衡を30歳で生んでいたとすると、彼女は宗任が(59年-30年+27歳=)56歳のときに生まれたということになります。しつこいようですが、男とはいえ、人間50年時代の56歳です。当時としてはかなり高齢です。しかも、宗任は罪人としてとうの昔に奥州から離れており、自由に往来できる身ではなかったのです。私の頭が混乱する理由をおわかりいただけますでしょうか。 おそらくどこかに嘘があるのでしょう。「安倍宗任の娘」ということ自体が嘘なのでしょうか。 しかし、奥州藤原氏にとって、秀衡が罪人である安倍宗任の娘の子であることを主張しても、なんの得もありません。だからこそ、私はそこにはなにかしらの真実があるように思えるのです。 現地に行けばなにかわかるかもしれない。そんな思いで私は平泉に向かいました。平泉は仙台から100キロもありませんので、このような思いつきでよく出向いてしまう場所のひとつです。 しかし、何度も訪れているわりに、意外にも秀衡の母が建立した「観自在王院」跡には一度も足を踏み入れたことはありませんでした。 このとき初めて知ったのですが、ここにはささやかながら、彼女の墓標がありました。碑には、仁平二年四月二十日付で「前鎮守府将軍基衡室安倍宗任女墓」と書いてあり、なにやら感慨深いものがあります。 結局は現地を訪れようとも何もわかりませんでした。しかし、この墓標にあえて強調されている「安部宗任女」の文字には信念すら感じます。先に私は罪人宗任の娘の子を主張することについてなんの得もないとは書きましたが、別な見方をするならば、この奥州の地においては、もしかしたら“藤原”という雅やかな姓よりも、“安部一族”を主張することの方がずっと強い求心力があったのかもしれないともよぎりました。 さて、私はその足で観自在王院の夫寺でもある基衡建立の有名な「毛越寺(もうつうじ)」にも立ち寄りました。そこでオフィシャル(?)ガイドブックを買い求め、パラパラと目を通してみると驚くべき記事に一瞬思考が止まりました。 恥ずかしながら知らなかったのですが、鎌倉側の記録である「吾妻鏡」には、「基衡夭折」という記載があるというのです。 それでは中尊寺に供養されている推定年齢50〜60歳代のミイラは一体誰なのでしょうか・・・・。 全く関係ありませんが、平泉にも京都よろしくお盆には大文字がありますが、この日ふと見上げると偶然「雪の大文字」が浮かび上がっておりました。
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亀の風土記:岩手県
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