はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 『松島町誌』の「処誌」の章「桂島(かつらしま)」の項に次のような記述がありました。

――引用――
 島の西端白崎山には松崎神社、庵寺山(あんでらやま)には桂島山不如庵がある。松崎神社の境内には島の名によって起った桂大納言の伝説があり、不如庵は松島瑞巌寺の末寺である。神手洗池跡(かみてあらいいけ)の付近に一基の古碑があって、碑面がすりへって読みとることはできないが、島の人々は国分の碑といっている。口碑によると、文治年間源頼朝の平泉征討に功があった、千葉常胤の五男五郎胤道が仙台郊外国分の荘をもらい代々国分氏といっていたが、天正年中伊達輝宗の弟彦九郎盛重が国分氏のあととりとなって、伊達氏のために各地転戦して功があったが、慶長元年三月に中傷のために政宗の怒りにふれ、追われて常陸の国に亡命して佐竹氏によった。これより先国分氏の松森城が陥落したとき盛重の妾腹の子重吉と共に、一族である馬場主殿(とのも)がこの島を領していたので、これにたより寄食して神手洗池の辺に住んでいたので国分の碑というのであると伝えられている。碑は高さ四尺余の粗末なものである。

 当然、私はこの碑を探しました。というより、この碑を一目見たくて桂島に渡りました。まあ、結局「これだ」というものはいまだに見つけておりませんが・・・。

不如庵
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国分の碑(?)
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 戦国時代、多賀国府を取り巻く宮城郡は、南北朝時代から応仁の乱と中央政権争いの代理戦に掻き回され、めまぐるしく変わるリーダーと、その都度巻き込まれる相次ぐ戦乱に辟易しておりました。
「なんでわしらがいつもいつもはるか遠くのお偉方の喧嘩に巻き込まれなければならんのだ」
といったところでしょう。
 そのような背景もあって、宮城郡の豪族達の間にはいわゆる談合体質が生まれていったようです。したがって、源氏の正統「足利氏」の流れをくむ奥州探題(たんだい)斯波氏系の大崎氏などは、早い段階で形而上の存在になりつつありました。
 一応当地の豪族たちは上座に持ちあげてはいるものの、実務上の独断政治などを許すはずもなく、結局大崎氏は、伊達をはじめ、葛西・留守・國分らに一々お伺いを立てなければ何も出来ないお神輿探題になっておりました。
 したがって戦国時代の宮城郡は、それまでさんざん混乱しつくした挙句に豪族同士の政略婚姻が進んでおり“皆親戚”状態にあったと言って良く、案外のんびりしたものだったのではないかとも考えられております。
 もちろん、緊迫した状態は続いていたようですが、現実に留守氏の高森――岩切――城と国分氏の松森城の間はわずか2キロしか離れていないにも関わらず、特別激しく存亡をかけた戦いには至っていないことからも、その考え方は頷けます。『泉市誌』はそれを「伊達氏の強い支配力」に原因を想定しているようです。なるほど、それは十分に考えられる話です。何故ならば、この地の戦乱はライバル大名同士の争いというよりは、各々の内部に抱えた派閥争いであったからです。
 各家の正統ではないいわゆる野党は、自分達の立場を有利にするため、身内の派閥争いに日本史級の超軍事大国を巻き込むなどして、外圧により正統の地位を奪回しようと策略します。言うまでもなく超軍事大国とは伊達氏のことです。留守・国分両氏共、やがて伊達系に変質していきます。
 伊達氏は、現在の南東北エリアの内部抗争に引っ張りダコでした。この狡猾な一族は、積極的にそういった諸家の内部抗争に介入し、着々と奥州における支配力を高めていたのです。
 特に独眼竜伊達政宗などは強烈です。伊達家存亡の障害になると判断すれば、それが実の父親だろうが弟だろうが容赦なく抹殺してしまうこの異端児にとって、かつての政略的な姻戚関係などは全く関係ありませんでした。
 政宗は、豊臣秀吉の小田原攻め前夜に生涯最大のエリアを支配下におさめます。
 鎌倉以来の名門「芦名(あしな)氏」を破り、事実上の奥州制覇を実現しました。その最大勢力段階においては、直轄でも120万石弱、実質支配下にあった國分・留守・葛西・大崎領を含めれば、ゆうに200万石レベルの一大勢力になっていたのです。なにより、このときの政宗がまだ24歳であったということが驚きです。
 さて、謎の一族、國分氏は、身内の争いに伊達氏を介入させ、軒を貸して母屋をのっとられた典型的な例でした。
 独眼竜政宗の叔父「彦九郎盛重」などがまさにその主役で、盛重は國分氏の養子となり、そのまま当主となりました。
 ところが、この盛重、事情は諸説あるものの、とにかく政宗の逆鱗に触れ、伊達傘下を追われ、前述『松島町誌』にもあるとおり、ライバル常陸国佐竹氏のもとに逃げ延びてしまいました。そしてここに國分氏が事実上滅亡したのでした。
 その盛重の子女として、國分氏の系図には三男一女の記録が残っております。そして、その三男一女の他にも妾腹の子がいたようで、そのうちの一人が『松島町誌』にもあるとおり少なからず松島湾の桂島(かつらしま)に縁があります。彼の名を、伊賀重吉といいます。
 重吉母子が隠棲していたからこそ、件の碑は「国分の碑」と呼ばれたようですが、先の『松島町誌』にあるように、そもそも馬場氏そのものが國分一族であったようです。
 何を言いたいかというと、伊賀重吉が桂島に隠棲するまでもなく、この島は“國分の島”のようなイメージが定着していたのではないか、ということです。となれば、桂島明神と呼ばれた神に託されたイメージも、いつしか國分氏そのものになっていた可能性は少なからずあったと思われますので、鎌倉以降代々鹽竈神社を管掌してきたライバル留守氏の存在を考え合わせた場合、鹽竈大神と桂島明神の関係は、留守氏と國分氏の関係を比喩されたものであったとしてもなんら不思議ではないでしょう。
 元々は、安倍氏なり奥州藤原氏なり、いずれ奥州の覇権を握っていたものに対する義家、ひいては源氏の“やっかみ”に端を発した言い伝えが、この地においては最終的に國分氏と留守氏の関係に置き換えられたのではないか、とするのが私の籬島伝説に対する臆測です。
 しかし、これではまだ肝心な部分が一つ抜けております。そしてそれは、この伝説が私を惹きつけている最大の理由なのです。それは、この伝説の悪玉が桂島である必然性です。
 桂島が登場するからこそ、國分氏が後づけられたとも考えられますが、その逆かもしれません。私がどうしてもひっかかっているのが、この部分なのです。 
 結論から言えば、残念ながら、まだ私のなかでもまとまっておりません。それでも自分の中の風景のようなものは固まりつつあります。とりあえずここは、國分氏という謎の一族の正体に関わる部分が伝説の根幹にはあるのであろう、という私論のかけらだけを露出して、話を締めくくっておきたいと思います。

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