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陸奥國分(こくぶん)氏のことを書きたくなりました。 伊達氏については、仙台に生まれ育った一個の人間として、当然ながら誇らしく思っております。中でも藩祖政宗公は崇敬すべき偉大なる人物です。 その政宗以前に、少なくとも約400年間、つまりは伊達氏よりも長い時間この地に権勢をふるっていた一族がおりました。 それが國分氏です。不思議なことに仙台市民はその一族についてよく知りません。 記録上、國分氏は源頼朝の奥州藤原氏討伐軍の一端を担った平姓千葉氏の系譜ということになっております。系図によっては藤原氏系であったりもします。平姓系図は江戸時代以降に生まれたもので微妙である、という説もなかなかに有力です。 つまりは、判然としないのです。 少なくとも、伊達氏に介入された段階においてはたしかに藤原氏の系譜であったのでしょう。何故なら、隣国のライバル留守氏の『余目記録』によれば、藤原姓小山氏から分かれた長沼氏が聟(むこ)として入っているようですし、仙台市青葉区芋沢「宇那禰(うなね)神社」の天文5年(1536)、永禄5年(1562)の棟札にも「藤原朝臣長沼」の記述があり、それが裏付けられております。 また気になるのは、紫桃正隆さんが『みやぎの戦国時代 合戦と群雄(宝文堂)』のなかで提起しているように、同時代同地区で活躍していた結城氏――朝光――の存在です。結城朝光は長沼氏同様、藤姓小山氏からの分かれであり、同族と言ってよろしいでしょう。 紫桃さんは、結城氏という屈強な一族が國分氏と同時期に同じ仙台平野――宮城郡・国分荘――に繁栄していたことから、この結城氏こそが藤原姓国分氏の正体ではないか、とも疑っております。 ――引用同書―― 白河小峯城系「結城氏系図」に「祖結城七郎朝光文治の役に功あり、白河、名取を給う。文治中、朝光仙台城に居ると云う」とあり、国分氏と結城氏は同時に仙台に入った。30年後の嘉禄二年、二代朝広は白河に移り(「東鏡」)、白河結城氏の事実上の祖となるが、結城氏はその後も仙台平野に残ったらしく、「古城書上」の「小泉村古館」のところに、「結城七郎朝光末裔、結城七郎天文迄。のちに国分盛氏居住」とある。 また根白石(旧泉市)の山ノ内城主、須藤刑部少輔、この人は桃生郡の郡主で、永正合戦で葛西氏と戦い破れ、根ノ白石に亡命した国人の末裔であるが、刑部少輔は天正十二年、結城七郎と戦い、最後は同地の山奥に杭城(くいしろ)を築いて抵抗するが、これも落とされ一族は滅亡した〜省略〜。中世の末期まで強力な結城一族が仙台平野に繁栄していた証拠である。 したがって結城一族が中世四百年を通し国分氏と接触なしに在ったとはとは到底考えられないところで、むしろ平姓国分氏の中に溶け込み、同族と化した藤姓国分氏はこの結城氏ではなかったか。 藤姓はともかく、平姓千葉氏の流れであったという系譜が実に微妙であることは先に触れましたが、それでも何故わざわざ平姓――千葉氏系――に結び付けられたのかは注目しておかなければなりません。 推測ですが、私の脳裏には、もしかすると陸奥国分寺になんらかの形で関わっていた“敗者の一族”が、鎌倉方の下総国――千葉県――国分氏の系譜を自称し、逆算的に千葉氏に結びつけられていったのではないか、という思いが強くあります。 何故なら、鎌倉軍として功があった一族であるのならば、すなわち勝者であり、しかも国分寺があるような陸奥国の中枢エリアを任されているのですが、にもかかわらず、鎌倉時代におけるこの一族の史料上での事績が全く見られません。國分氏が史料上初めて姿を現すのは南北朝時代に入ってからなのです。『仙台市史』には次のようにあります。 ――引用―― まず、一三五三年(文和二)に国分淡路守が、奥州管領(室町幕府が陸奥国に置いた地方官)によって、石川兼光が恩賞に得た宮城郡南目村(宮城野区・若林区)を兼光の代官に引き渡す使節の一員に任命されている。このような役目は現地に在住する地頭領主に与えられることになっており、この時点で国分氏が宮城郡にいた可能性がある。さらに一三六三年(貞治二)の史料から、この時期には、国分氏が陸奥国分寺を中心とする国分寺郷(若林区木ノ下・白萩町あたり)に所領をもっていたことがわかる。 國分氏は、鎌倉以来160年もの間、この宮城郡――国分荘――において一体何をやっていたのでしょうか・・・。これだけ力を持った一族の記録が100年以上の長きにわたって何もない、ということはあり得ないと思います。
ウェブ百科事典のウィキペディアによれば、陸奥國分氏の祖である國分胤道が陸奥国の國分荘を得たことを記すもっとも古い史料は、元禄16年(1703)成立の『伊達正統世次考』であるとのことでした。 つまり、最後の國分氏である盛重が生涯を閉じた元和元年(1615)からみても約90年経過した後の史料なのです。 これはどう考えるべきか・・・・。私は二通りの理由を想像します。 一つは、単に記録が逸失してしまったこと。それは故意によるものも含みます。 もう一つは、違う名を語る氏族だったものが、後付けで國分氏という名を語ったことによるもの。つまり、鎌倉期以降南北朝時代までの160年の間は、他の氏族の名前で活躍の事績があるかもしれない、ということです。 紫桃さんはそれを結城氏であろうと疑っているわけです。 いずれにせよ、正体を顕在化出来ない一族であった可能性は“かなり高い”と考えざるを得ません。 |
陸奥國分一族のこと
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こんにちは。
千葉介常胤が五男胤通を祖とする国分氏について、興味深く拝読させて頂きました。
2009/12/9(水) 午後 3:44
ビナヤカさん、ありがとうございます。
国分氏には、なにから書いていいかわからなくなるくらい思い入れがたくさんあります。宮城郡の歴史を掘り下げようとするならば避けては通れない存在だなあ、と思っております。
2009/12/9(水) 午後 5:05
国分氏については、その通りだと思います、私も追いかけたことありましたが、何せ盛重出奔ということからしてか、伊達氏方史料も乏しく『伊達正統世次考』にしても良く書くはずもなく。
国分城が落とされたとされた時、城は炎上したのでしょうか。
はたまた、83人の家臣とともに逃げたと伝えられていますが、人数については前に「伝」が付くとして、生き延びたわけですから、鍵は城代として居た、横手にあると踏んだのですが、横手にもこれと云った史料もなく、もちろん資料館にもなんにも無かったです。
わずかに、盛重の菩提寺がわかっただけでお手上げ状態でした。
やはり、負け組に入ると何も残らないのでしょうか。。(笑)
2009/12/9(水) 午後 7:21
ビナヤカさん、勉強になります。
なるほど、出奔の軌跡を追ったわけですね。佐竹氏とのつながりも確かに気になりますね。そちらはまるでノーマークだっただけに、ためになりました。ありがとうございます。
私は、国分氏滅亡の後も伊達領内で国分衆と呼ばれて生き続けた人たちや、伊達氏が後継問題で介入したことから考えて、むしろ女系が気になっております。もしかしたら国分一族の正統意識が強かったのは女系の裔ではないか、という気がしているからです。
2009/12/9(水) 午後 8:12