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坂上田村麻呂に由来を持つ観音信仰の中で、最たるものが奥州三観音と呼ばれるものでしょう。奥州三観音とは、宮城県宮城郡松島町の「富山(とみやま)」、同じく石巻市の「牧山(まぎやま)」、同じく遠田郡涌谷町の「篦岳(ののだけ)」の三観音です。 これから、各々について漠然ながら概観してみたいと思います。 まず富山ですが、この場所は地理的に言えば松島湾の北に位置する標高116.8メートルの山で、その優れた眺望によって『塩松勝譜』の舟山万年が松島四大観に定め、現在に通ずる景勝地となっております。 山頂の観音堂は坂上田村麻呂が大同年間に慈覚大師円仁作の観音を安置したものというのですが、はて、私の頭の中の年表に基づくならば田村麻呂と円仁が同時代にこの地を舞台にしていたと考えるにはかなりのギャップがあります。 田村麻呂がアテルイやモレを降伏させたのは延暦21年(801)であり、伝承にある大同年間とは西暦でいうところの806年から810年までの年号です。この頃は、慈覚大師円仁などまだ歴史の表舞台には存在せず、むしろその師である伝教大師最澄や、そのライバル弘法大師空海が帰朝していよいよ平安仏教旋風を巻き起こし始めた時代です。円仁が入唐して密教を究めて帰朝したのは承和14年(847)のことですから、富山観音が田村麻呂によって安置されたものと信じるならば、円仁の作であるというセンはほぼあり得ないと断定してよさそうです。 あるいは田村麻呂が安置したという伝承が偽りなのでしょうか。しかし私は田村麻呂については少なくともなんらかの真実があったのではないか、と考えております。 それは、現存するこの観音堂は伊達政宗の長女である「五郎八(いろは)姫」、すなわち天麟院が山口重如なる人物に命じて修理させたものである、と夢庵の『松島記』にあり、しかもその天麟院が並々ならぬ思いで取り組んでいたフシがあるからです。 天麟院の命令で山口重如が観音堂の修理にとりかかる際、周囲には大木が多かったようです。これではせっかくの眺望を妨げるという理由で、重如はそれを伐採しようとしたのだそうです。 このとき天麟院は厳しくさとしました。伐採を決して許さなかったのです。なにやら天麟院のこの観音堂にかける強い思いが伝わってまいります。 それが何故田村麻呂の信憑性につながるかというと、天麟院の母親、すなわち政宗の正室である愛姫(めごひめ)が三春――現福島県――の田村家の女であり、三春田村家とは代々坂上田村麻呂を始祖と仰ぐ一族であり、それを信じるなら天麟院は田村麻呂の裔孫ということになり、それ故にこの観音堂にかける思いが強かったのではないか、と考えることも出来ると思うからです。 天麟院――五郎八姫――が寄進した梵鐘 ちなみに、天麟院すなわち五郎八姫といえば、政宗の最後の野心の切り札でもありました。 彼女は、徳川家康の6男松平忠輝に嫁いでおりましたが、やがて大坂の陣で豊臣家が滅びて以降、事実上抜きんでた実力者となってしまった政宗が、舅として徳川家の執権と化す可能性を徳川家は恐れたのでしょうか、忠輝は改易され、五郎八姫も離縁され政宗のもとに返されました。 そもそも、大名同士の婚姻を禁止した豊臣秀吉の御法度を破ってまで実現された徳川家康の息子と伊達政宗の娘の政略結婚でありましたが、五郎八姫はそれでも忠輝を愛してやまなかったようで、出戻りとなった以降も新たに夫を持つことはなく、天麟院と名乗る尼として生涯を閉じました。 富山にはこの天麟院の逸話以外にも、かつてはやはり霊地としてそれなりに一級品であったことを思わせる話があります。 『松島町誌』によれば、寛文年中山頂すぐ下の「富春山 大仰寺」という寺に、瑞巌寺の僧「洞水」が十年不帰の誓いを立ててひそかに入山していたのだそうです。 松島湾においてそのような行に最もふさわしい霊地といえば、真っ先に思い浮かぶのは雄島である気もするのですが、とにかく、この洞水という僧は何故か富山を選択しました。 「“ひそかに”入山した」と伝わっている部分が気になっておりますが、残念ながらそれ以上の情報は得ておりませんのでなんとも言えません。 いずれ、それが秘されなければならない理由が、入山そのものにあるのか、それとも富山という場所にあるのかはとても気なっております。お気付きのとおり、なにしろこの山の名前は“トミ”ヤマなのです。 さて、その大仰寺には、明治天皇や大正天皇が東北地方を御巡幸されたときにご休憩所とされた「紫雲閣」があります。陛下ははたしてどのような基準で立ち寄り地を選定されていたのでしょうか。 大迎寺紫雲閣
おそらく単なる偶然なのでしょうが、天皇陛下が立ち寄られたという場所には往々にして私の好奇心を刺激するキーワードが多いのも事実です。 ところで、奥州三観音全てに言えることなのですが、これらの地には各々エミシの酋長の首を埋めたものというような伝承があります。 ちなみに富山の場合、大竹丸――大嶽丸――という酋長の首を埋めたところとも伝えられております。 |
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時の朝廷は蝦夷征伐の費用を、現地で金を採取してまかなっていたようです。
坂上田村麻呂も例外なく金を採取しいたところ、金のあるところ鬼渡大明神有り・・・とは断言できませんが、鬼渡大明神が現れ、自己紹介している記述があります。
下馬にも仁和多利神社がありますが、塩釜神社とニワタリ系の神社は似ている所があります。
2010/1/1(金) 午前 10:00 [ 平九郎 ]
一昨年故人となられた紫桃正隆さんが言うには、後冷泉天皇は陸奥の国王に命じて黄金と漆の収集にあたらせたとき、北上川沿いの各郡に長谷寺を建立させ、十一面観音を本尊として信仰かたがた金と漆の収集基地に充てたそうで、現在でも長谷寺付近には金山が多く、未開発ながら謎含みの産金地帯になっているそうです。
2010/1/1(金) 午前 10:38
富山…やっと修復が終わりましたねぇ。。。
あの仁王像はどうなってましたかねぇ。。。
二つのことを妄想しております。
ひとつは「仁王像」のお顔です。。武勇に秀で魔を祓う力の象徴として東北ではある人相が定着してたのではないか。。。。
ふたつは慈覚大師伝説です。伝説の残る寺は全国で600弱。東北にはその半数以上があるわけです。一人ではないだろう。。。。ではどんな集団か?????
富山は霊場です。二度ほど拒否されてしまいましたよ。。。笑。
2010/1/3(日) 午前 1:07
おんちゃんさん、あけましておめでとうございます。
やはり富山は修復工事をしたんですよね。数年前にはもっと雑然としていた記憶がありましたので・・・。
二つの妄想(?)ですが、あながち外れてないのではないかなあ、と思いました。
某所で釜神様の制作に携わっている御方のお話を聞いたとき、その方も釜神様の表情や分布を見て、もしかしたら“そう”なのではないかなあ、と想像されておりました。
また、円仁さん伝説地については、私はやはりほとんどが天台僧の集団だと思っております。
富山で二度ほど拒否されたって・・・一体どのように・・・。
2010/1/3(日) 午前 6:30