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平安時代の『延喜式神名帳』において陸奥国――おおよそ現在の宮城県全域と福島県及び岩手県の一部――には100座の神社がリストアップされております。そのうち、「大社」扱いの最高ランクの社は15社ありました。この数は、26社で国内最多の別格な大和国――奈良県あたり――にはさすがに見劣りするものの、それに続く山城国――京都府あたり――の16社に比べるならば十分に匹敵する数なのです。言うまでもなく平安時代の延喜年間において大和国は既に旧首都所在地ということになりますが、山城国は首都所在地なわけであり、その首都に匹敵する数の式内大社を擁しているというのはこの時期の陸奥国が大和朝廷の政策上いかに重要視されていたかを容易に推察できると言うものです。そしてその理由は明確です。そもそもの面積が広大であることももちろんですが、それ以上にこの延喜年間において陸奥国は“アテルイ戦”に代表される対蝦夷戦の戦後処理の余韻が生々しく残っていたということがあるでしょう。 陸奥国のエリアに大和朝廷を含めた中央氏族が進出、あるいは侵略してきたのはいつの頃からであったのでしょうか。そしてそれはどのような一派であったのでしょうか。それらは必ずしも一斉に大移動してきたとも限らないわけで、いや、むしろそのような大移動ではなかったからこそ史料にも残り得なかったとも言えるのですが、多くのランダムに規則性もなく浸透していった類のものとの“仕分け”を考えるとき、それらを明確にする作業は至難と言わざるを得ません。 しかし、専門的な歴史学として捉えるには無理であっても、あくまで“風景”として捉えるものであれば、寺社などに残る伝承を含めて覗き見ることによってその面影を探し出すことは決して不可能なものでもありません。 そこで私が注目しておきたいのはヤマトタケルと鹿島神です。 鹿島神とは、言うまでもなく常陸国に総本社を置く鹿島神宮の神様であり、一般にタケミカヅチと呼ばれている神様ということになります。この神様は、剣を突き立てて出雲族に国譲りを強要した屈強な神様として有名で、現在でも剣道の心得がある方などには馴染みの深い“武神”の代表格となっております。 この神を私が具体的に意識し始めたのは鹽竈(しおがま)神社の不思議を意識してからのことでした。なにしろ、タケミカヅチは、鹽竈神社の左宮の祭神であり、対である右宮の祭神フツヌシ――香取神宮の神――、別宮の鹽土老翁(しおつちのおじ)と共に鹽竈社の祭神としての一面も持ち合わせております。別宮がシオツチノオジであるという捉え方については思うところもあるのですが、それについては既に本題でさんざん語りました。 陸奥国において鹿島・香取の神を祭神にしている鹽竈神社が現代に至るまで鹿島社でも香取社でもなく、あるいは春日社でもなく、あくまで“鹽竈社”という強烈な個性として残されていることの意味は無視できないわけで、つまり、鹿島・香取・春日とは“別物であろう”と私は考えておりました。今さらりと書きましたが、奈良にある春日大社もこの鹿島の神が祭神ということになっております。そして、今鹽竈社について私が触れた見解同様、春日社が鹿島社を名乗らず“春日社である理由”も、これは“本来の鹿島とは別物であるから”と言っていいと考えております。 ただ禅問答のようなことを言ってしまえば、本来の鹿島とは一体何?ということになってしまうので、私が今「本来の・・・」と軽々しく言いきってしまった鹿島とは特にタケミカヅチという意味ではなく“『常陸国風土記』が語るところの「香島の天の大神」”のことと定義しておきます。念のために申し上げておきますが、どちらが本物、どちらが偽物という話にするつもりは全くありません。どちらも本物の鹿島神であるということも明言しておきます。鹿島社の歴史は実に複雑なのです。 実は困ったことに、前述の定義をあてはめるならば本場茨城県鹿嶋市の鹿島神宮自体“本来の鹿島”ではなくなってしまいそうなのです。 『日本三代実録』の貞観八(866)年一月二十日条に、少々驚かされる事件について記録があります。――以下、工藤雅樹さん編『東北古代史・資料集(多賀城市史跡案内サークル叢書第一号)』より―― ――引用―― 是より先、常陸国の鹿嶋神宮宮司言さく、大神の苗裔神卅八社、陸奥国にあり。〜中略〜之を古老に聞くに云く、延暦以往、大神の封物を割きて、彼の諸の神社に幣を奉る。弘仁よりして還へり、絶へて奉らず、と。是に由り、諸神祟をなし、物の恠寔に繁し。嘉祥元年、當國の移状を請ひて、幣を奉りて彼に向ふ。而るに陸奥国は、旧例无しと称し、関を入るを聴さず。宮司等、関の外の河辺において、幣物を祓ひ弃てて帰る。それより後、神の祟止ず、境内は旱き疫む。望み請ふらくは、彼の國に下知せられ、関の出入りを聴され、諸社に幣を奉り、以って神の怒を解かんことを。〜以下省略〜 鹿島大神の御子たちは反抗期を迎えていたのでしょうか・・・・。 同資料集には『類聚三大格』の同内容記事も掲載しておりますが、つまり、貞観八年という時代において、陸奥国に鎮座する苗裔神を祀る神職たちが、本場鹿島神宮の宮司の命令に対して旧例にないといって退けているのです。しかも、そこには陸奥国の行政も一丸となっており、鹿島の宮司に対し関まで閉鎖しているのです。更に、その際に鹿島神に祟られたのは陸奥国側ではなく、なんと鹿島神宮側であるというのは一体どういうことでしょう。 『日本古代史論(大和書房)』の大和岩男さんは、この事件は鹿島神宮本社の司祭者が中臣氏――藤原氏――に変わったことに関係していると考えているようでした。“変わった”ということは、つまり鹿島神宮の司祭者が藤原氏ではなかったことを前提としなければならないわけですが、大和さんはその本来の司祭者を“オホ氏”である、と考えているのです。大和さんは言います。 「このことは藤原、中臣氏用に変質した常陸の鹿島社に対する 本来の信仰をもつオホ氏鹿島社の祟りである。藤原、中臣用の鹿島神宮にはまったく神威がなく、陸奥の鹿島御子神社にたよるしかない春日風鹿島神の弱い立場をこの記事は示している」 なるほど納得です。 宮城県石巻市の式内社「鹿島御兒(かしまみこ)神社」
福島県南相馬市鹿島区の式内社「鹿島御子(かしまみこ)神社」 |
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