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かつて、私を輩出――排出?――した今野家には、毎年近しい親戚が集って旅行に行くという恒例行事がありました。ある年のそれは、福島県いわき市の「常磐ハワイアンセンター」でした。 マイカーが一家一台の時代、我が家のトヨタカローラだったか日産サニーだったかは忘れましたが、私と仲のいい従兄弟も同乗しておりました。 宮城県岩沼市で国道4号から分かれた国道6号は浜通りをはるか東京方面へ南下します。やがて福島県原町市――現:南相馬市原町区――に近づくと、煙突のような塔が見えてきました。そろそろ長いドライブにくたびれてきた私たちに父が投げかけます。 「あの塔がこの道路の右にあるか左にあるか当ててみろ」 さあ、にわかに車内が賑やかになってまいりました。私たちはなんの根拠もなく右だ左だとあたかも賭けのような興奮に包まれておりました。あまりに高い塔のため、よほど遠くから見え始めていたせいかいつまで経っても近づいてきません。これが、道路のワインディング状態に合わせてどちらにも見えてしまうものですから、その都度盛り上がることこの上なしです。 さて、その塔は20年以上も前に解体されております。 新聞記事でその解体のニュースにショックを受けた記憶があります。そのたあいもない“賭け”以外に特に思い出があるわけではないのですが、妙に心に刷り込まれて残っていた風景なのです。とうに役目を終えた時代遅れのその塔は、老朽化した鉄筋コンクリートが剥落するなど大変危険な状態にあったとかで、たしか鳥の巣になっていたとも記事にはあったと記憶しております。 ここ数年平気で数百キロを移動してしまう私にはこの原町までの距離など、どうということも感じなくなっているわけですが、それでもこの地を通るたびに過去の記憶がよみがえり、その塔がなくなってしまっていることに寂しさを感じております。 その塔は大正10年に開設されたという“無線塔”でした。 それは、日清・日露戦争に連戦連勝の我が国が世界の一等国へまっしぐらに突き進んでいた時代で、この無線塔の目的も情報戦争に乗り遅れまいとした国家の威信がかかった、特にアメリカを意識した外交戦略上実に重要なものであったようで、高さも200メートルと当時としては驚くべきものでした。これは東京タワーが完成するまでは東洋一の高さであったのだそうです。 この塔の武勇伝で最も有名な話は、大正12年に関東大震災の第一報をアメリカに打電したことでしようか。 現在、昔のように国道6号を南下して原町に入ると、ささやかに当時の風景の名残があります。塔の跡地に10分の1のミニチュアがモニュメントとして残されており、10分の1とは言え20メートルもあるわけですからいっぱしのビルディング並みはあるわけで、距離感が麻痺していれば思わず「お!」と思わせられます。 やはり地元の人たちにとっても、いえ、私などとは比較にならないほど思い出のつまった塔であったのでしょう。 1977年当時の無線塔:いわき方面から望む
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今野さんは排泄されたのでしたか…それはそれは…それは水に流して話題を戻しますが、記事でおっしゃているような淋しさはわかります。今野さんのように刷り込み?でなくても自分だけが印象にとどめている象徴的なランドマークのようなものが突如消失した悲しさを体験しました。一本の古い松の木で今野さんの記事とはスケールが違うのですが(汗)それが無くなっても誰も話題にもしないもんだから余計に切なくなりました。
2010/2/17(水) 午前 10:18 [ - ]
ルゴサさん、ありがとうございます。
モノではないのですが、かつて仙台駅前にあった某百貨店では午前10時、正午、午後3時に「荒城の月」を、午後9時には「この道」のサイレンを流しており、市内のどこにいても聞こえました。22〜23年くらい前に音がおかしくなってきてついに終了してしまいました。
物心ついたときから流れていたものが、ある日を境にぱったり聞こえなくなったときもさびしかったですね。
2010/2/17(水) 午後 0:49
写真の古さは、写っている車の車種で解りますね・・・1977年に写っている車はセリカ・ハッチパックでしょうか???
なぜ、無線塔のモニュメントを建て直したのでしようか? 地元の人にとってはシンボルだったのでしようね!?
現在の仙台のシンボルは何かなぁ〜???
2010/2/17(水) 午後 1:31
ロッソさん、ありがとうございます。
このころはまさにスーパーカーブームでした。名前はわかりませんが、道行く車には、平バネで揺れ続ける“手のひら”なんかもよく見かけましたね。
仙台のシンボルですか。中山の巨大な観音様!(笑)
2010/2/17(水) 午後 1:56
原町育ちの私としてはこちらの記事、うれしく拝見しました。無線塔は原町市民の誇りでしたね。東洋一というのは知りませんでしたが、関東大震災の一報を…というのは大人からよく聞かされていました。
10分の1の塔を作るというのは、塔の本来の役割から考えれば滑稽かも知れませんが、それでも、このちいさな塔でもあるとないでは大違いなのです。見えなくなると人間はすぐに忘れてしまいますから。
当時無線塔はどこからでも見えました。車で出かけるときもどこまでもついてきました。(笑)見えなくなると、そこを離れたということを実感するようなものでした。
2010/12/11(土) 午後 2:32 [ ppp ]
maoさん、ありがとうございます。
現在仙台で一番高いトラストシティーですら180mであることを考えると、大正時代の200mがいかにとんでもないものだったか推して知るべしと言ったところでしょうか・・・。ざっと中山の観音様の2倍ですね。
2010/12/12(日) 午前 7:18
今日は。初めまして。
私は、原町生まれ、原町育ちで、高校一年生までいました。
無線塔は、私にとって故郷そのものです。旅行から帰って来るとき、帰省のとき、汽車の窓から見える無線塔の灯りは、安心の温かさがありました。
死ぬまで忘れずに、大切に覚えておこうと思っています。
取り上げていただき、ありがとうございました。
2011/1/8(土) 午前 11:21 [ そらのかなた ]
そらのかなたさん、ありがとうございます。
いただいたコメントを読んでいると、あたかも阿久悠さんの歌詞のような、遠く懐かしい昭和の心象風景が目に浮かぶようです。
この世知辛い時代、私の拙い記事が、安らげる思い出に浸る時間のために少しでも役に立てたのなら、とても光栄です。
2011/1/8(土) 午後 0:56
すばらしいですね。
私は桜井町で生まれ育ちましたが、無線塔解体直後くらいに生まれたので見ていません。すごく残念です。
目の前に立つ壮大な姿、一度でもいいから生で見たかったと、時々悔やみます。あれほど誇れる建造物、どうにかして残せなかったものか。
残す案もあったように聞いてますが。
高校生の頃、低いですが似たような針尾無線塔を船上から見たときは、言葉では言い表せない感動と興奮がありました。
近いうち、針尾無線塔のそばまで行って見上げてみて、原町無線塔の姿を見ているように目に映し出したいです。
写真の掲載ありがとうございました。
2012/2/10(金) 午前 1:52 [ きぼうのほし ]
きぼうのほしさん、ありがとうございます。
解体決定の新聞記事を切り抜いて記念にスクラップにしておいたはずですが、紛失してしまったようです。
よそ者ではありますが、結構切なかったですよ...。
2012/2/10(金) 午前 5:37