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前に少し触れましたが、奈良県磯城郡田原本町の多神社は太陽信仰と密接と考えられます。多神社は三輪山山頂の真西に位置しますので、春分の日、秋分の日には三輪山山頂から日が昇るように見える場所なのです。多神社東方約1キロにある鳥居などは、あきらかに三輪山を遥拝すべく建てられており、三輪山は鳥居の中に見事にすっぽりとおさまります。 これを偶然と言うなかれ、『日本古代試論(大和書房)』の大和岩雄さんは真北にある石見の鏡作神社、 ――『日本古代試論(大和書房)』より引用―― オホ神社の位置が三輪山の春分、秋分の日の出を拝する位置とすると、オホ神社を基点に南北に線を引き、三輪山の冬至、夏至の日の出を拝する位置が、神武天皇、神八井耳命(『書記』に神八井耳命は畝傍山の北に葬るとある)の陵のある畝傍山の北と、石見の鏡作神社である。〜略〜 三輪山山頂からみると、冬至の夕日が落ちるのが畝傍山である。日没の場所は死者を葬る場所なのだから御陵があるのは当然といえよう。また冬至の朝日を拝する場所の周辺が鏡作氏の居住地であるのは、春分と共に冬至が古代の農耕祭祀にとって重要な時期だからである。 大和さんは、葛城王朝説を主張する鳥越憲三郎さんがもてあましていた多神社の不自然な位置についてこのように明確な理由づけをしたのです。
鳥越さんは、葛城山麓と三輪山麓に最高格の神社が集中していることについて、そこに各々巨大な文化圏が存在していたことに由来するとしていたわけですが、そのいずれにも属さないエリアにある多神社の社格が異様に高いことについては、太安麻呂が記紀編纂に関係したためのものと見ておりました。 大和さんは、鳥越さんの説を大筋で支持しながらも、太安麻呂云々については異を唱えておりました。理由は「社格を上げるほどの実力は安麻呂にはない」からです。安麻呂は8世紀の人物であり、『延喜式』は10世紀初頭のものです。大和さんは、オホ氏などよりはるかに実力があったであろう藤原氏の春日大社の社格が「名神大ではあっても相嘗ではない」ことを引き合いにして、10世紀の藤原氏の実力をもってしてもそれが出来ていなかったわけだから、ましてや時代を下げるにつれ実力を失っていくオホ氏にはとてもそのような操作など出来るはずがないとしているのです。 そこで先に触れた太陽信仰にその理由を見出すのです。多神社は春分の日に太陽が昇る「神なる三輪山」を遥拝する「宮」であったというのです。地元では三輪山の大神神社を「おおがみさん」、多神社を「おおみやさん」と呼んでいるとのこと。 更に大和さんは『多神宮注進状』にある 「皇帝神八井耳命帝京以降 居於当国春日県(後為十市県)造営大宅塩梅国政、斯蓋起立神籬磐境 祭礼皇祖天神 陳幣帛啓祝詞 以答神祇之思而主神事之典焉使県主遠祖大日諸命(鴨王命之子)為祝而奉仕也」 の記述をもって「三輪系と葛城系の中間に位置していて、三輪と葛城の中を執(とりも)つ神社の性格をその場所が示している」と補足しております。 |
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