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照井一族についての資料はあまりに少なく、その実像にせまるのは至難の業です。
平成21年春の『河北新報』の記事で、「前沢歴史の会」会長の本平次男さんが照井太郎高直をテーマにした『平泉の唄』なる著書を世に出すにあたり、その資料取得の困難さを嘆いていらっしゃったことは記憶に新しいところです。 それを思えば、狩野義章さんの『照井物語』による照井氏の供養会の描写は実に貴重です。狩野さんはこれとは別個に、照井太郎高直関連の遺跡について貴重な論考を書いております。 余談ながら、この狩野さんは私が知る限り唯一栗原の武烈天皇伝承と向き合っていた方です。おそらく、同じ姓の「スタッフ〜」のイケメンなあの方の親戚スジにあたるのでしょう。 狩野家には、先祖が武烈天皇の陸奥下向に同伴したという伝承があり、イケメンなあの方のご実家「櫻田山神社」は武烈天皇を祀っておりました。 ところで、本平さんの『平泉の唄』には、狩野義章さんが紹介した照井氏の供養会の情景や、論考に列記された貴重な遺跡については反映されておりません。「民話」ということで史料に値しないと判断されたのではないかとも思ったのですが、論考で列記されていた遺跡の反映もありませんから、おそらく単純に狩野さんの功績を知らなかったのでしょう。もしかしたら『束稲の唄』という前作にはそれが反映されているのかもしれませんが、まだ目を通していないのでわかりません。 いずれにせよ、私は照井一族の実像に迫ろうとしている本平さんには陰ながら拍手を贈ります。この照井一族の実像を知ることは、歪められた当地の歴史の実像に迫る上で大変意義があると考えるからです。 逆に言えば、本平さんや狩野さん、あるいは『ゆりかごのヤマト王朝(本の森)』の著者である千城央(ちぎひさし)さん以外にこの一族をテーマに取り上げている地元の有識者が見当たらないことに不自然さと不気味さを感じております。もしかしたら、タブーなのでしょうか・・・。 私は、少なくとも20を超える照井一族の関係地を把握しておりますが、例えば狩野さんの民話に出てくる照井一族関連地、すなわち菩提寺「阿弥陀寺跡」及び城館「鹿ケ城」「淵牛館」「梨木館」「姫松城」「池月城」についていうならば、淵牛館については未確認ながら、教育委員会の説明標などの現地案内板で照井氏との関係を明記していたのは「鹿ケ城――佐沼城――」だけでした。 興味深いのは、「池月城」――宮城県大崎市岩出山――に比較的近い「丸山館――照井城――」です。 ここは、他でもない頭首と目される照井太郎高直の居館と伝えられております。 しかも近くには佐沼城同様、高直が藤原秀衡の命で勧請したという「大崎八幡神社」もあり、このエリアが奥州藤原時代の照井氏の中心拠点であったとも考えられます。 一方、佐沼城こそが照井太郎高直の居館ではないか、という声も聞こえそうです。 なるほど民話では兄弟が競って佐沼城主を接待しようとしておりました。 ところで、この民話の時代設定については、少々気になる部分があります。 民話の雰囲気では奥州藤原氏が安泰な時代であったと推察できます。 また、後三年の役の武勇伝が話題にあがっていることや、特に源氏について友好的に語られていることから、まだ源頼朝の脅威がなかったものとも思われます。 何を言いたいかというと、この供養会は源頼朝との間に緊張が走っていた時代よりも昔のことではないかということです。 つまり、そもそも藤原秀衡以前の話なのではないか、と感じているのです。 しかし、民話には秀衡の命で築城された佐沼城の城主が登場しております。このあたりがとても悩ましい部分なのです。民話なのだから真剣に考えなくてもいいのかもしれませんが、しいて信じるならば秀衡時代だとしてもだいぶ初期であったということでしょう。 あるいは、もしかしたら佐沼城は照井の居城ではなく、大使館的な役割を担い、つまり城主というのは源氏の目付け役だったのではないでしょうか。 話を戻します。 「姫松城」については、藤原氏の家臣「井ノ山雅楽之丞」なる人物名が書いてありましたが、狩野さんの論考に「井の山城主は照井氏の後」とありますので、ここは照井氏と言っていいのでしょう。 もちろん、これらの城主として照井氏の名が記載されてなかったとしても、そもそも奥州藤原氏が滅亡してから葛西氏や大崎氏ら鎌倉武士が進駐してきたわけで、入れ替わった彼ら一党が居館とした場合が多いわけで、あるいはその後伊達の時代へとめまぐるしく城主が入れ替わっているのですから、面影が感じられなくてもしょうがないと言えばしょうがないのかもしれません。 しかし、「梨木館」に至っては現地の標柱に「年代、館主等は一切不明」とありました。 また、昭和51年版の『岩出山町史』には、「池月館」について「時代も館主も不明」とあります。 つまり葛西氏や大崎氏や伊達氏の名すら出てきていないのです。であれば、少なくとも照井氏の居館であるという伝承は唯一の拠り所であると思うのですが、何故不明とされてしまったのかはわかりません。 また、当地を流れている一迫川は、実は江戸時代まで「照井川」と呼ばれておりました。 思うに、やはり賊軍の英雄の証である照井姓は、時代によっては憚る必要もあったということでしょう。 もしかしたらその姓を名乗ることで不利益を被ることもあり、彼らは自主的に変名していたのかもしれません。 いずれ平泉首都圏を背にした宮城県北エリアは、あきらかに“奥州の英雄”「照井王国」であったようです。 |
水を操る太陽の一族
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当該記事本文一部修正のお知らせ。
記事原稿執筆中に未確認のつもりだった「池月城」が、なんと、お恥ずかしながら、手元の資料にていとも簡単に確認できてしまいました(笑)。
さらに、それが「丸山館」とは別個のものであったことも確認できてしまいました。
「まあ、これも生きた文章のあかし」「人間味があっていいのではないか」などと都合よく開き直ろうかとも思いましたが(笑)、皆様に誤った認識を植え付けてしまってはよろしくありませんので、恐縮ながら修正させていただきましたことをここにご報告致します。
2010/4/13(火) 午後 7:51
はっはぁ〜宮城県北エリアは「照井王国」だったとは・・・
藤原氏を伊達家と入れ替えれば、照井氏は白石の片倉小十郎といったところだったのでしょうか。信頼されていたのですね。。
2010/4/14(水) 午前 11:15
ロッソさん、ありがとうございます。
片倉小十郎とはうまい例えですね。
私個人的には、奥州藤原氏の実質は基本的に藤原氏のブランドを利用した安部氏だと考えております。照井氏はその安部氏となんらかの深いつながりがあったのではないか、とも想像しております。
照井氏がもし一部の噂どおりアテルイの系譜だとしたら・・・。
いろいろ妄想は尽きません(笑)
2010/4/14(水) 午後 7:23
2010/10/16(土)午前11:01さん、ありがとうございます。
ご先祖様のお気持ちは末裔の方が一番理解できることと思います。私ごときが偉そうなことを言えるものではありませんが、少しでも拙ブログがお役に立てたのなら、これに勝る喜びはありません。つつがなくお掃除が終了することを、陰ながらお祈り申し上げます。
2010/10/16(土) 午後 0:01
すべて読んでいないのですが、私の母の実家は伊達の照井家です。 私の母は長女で九州の松井家に嫁ぎました。 兄が一人いて、名前は厚といいたぶん他界あれたと思います。 彼の長男(私の従兄弟)は利光といいます。 祖父は台南精糖で大日本帝国の責任者だったそうです。 照井家は25代天皇、武烈天皇までさかのぼることができます。
2013/5/13(月) 午後 0:55 [ matsui ]
私の祖父は長男でしたが邦に奉仕するために家督を次男に譲り台湾に渡ったそうです・
2013/5/13(月) 午後 1:02 [ まつい ]