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鹿ヶ城――佐沼城:宮城県登米市――本丸の照日権現は『佐沼郷土史の散歩道』に紹介された『安永風土記』の記述によって照井太郎高直の守護神であると知りました。このことで、照井氏の名前の由来が照日(てるひ――太陽信仰――)だろうことを推察出来ましたし、また、長崎県対馬の「阿麻氐留(あまてる)神社」が「照日権現」と呼ばれていた例などから、照井氏も“アマテル信仰”の一族であったことがほぼ確実と思えるわけです。
鹿ヶ城――佐沼城――は、平泉三代藤原秀衡の命を受けた家臣照井太郎高直によって築城されております。 現在でこそ陸続きの体ですが、かつてこのあたりは河川の氾濫原で、一雨降れば一気に湖と化しておりました。まさに“湖上の要塞”であったのです。したがって、その築城には相当卓越した治水・土木技術が不可欠なはずで、どうやら照井氏にはそのような特殊技能があったのでしょう。 事実歴代の照井氏が岩手県南や宮城県北の治水に多大なる貢献をしていたことは間違いないようで、現在でも岩手県一関市には照井氏の功績に連なる水利組合が発展した形の「照井土地改良区」があります。 前にも触れましたが、一迫川の江戸時代以前の旧名は照井川であり、その他にも市町村史などには照井堰なども散見できます、照井氏と河川のつながりは濃厚なのです。 本平さんの『平泉の唄』によれば、「照井太郎の出身地は一関市、国道四号線下の磐井川堤防近くの旧中里村、藩政時代迄は照井村と称され、高春の功績を讃え照井神社が今もあり祭日には毎年御膳供養が行われている」とのことでした。 また、狩野さんの論考『照井太郎高直の遺跡考』には、「水利工事の業績が地区住民の尊敬の念と結合し照井水神となり、照井権現として信仰されたのである」とあります。 しかし、これは照井氏自体が神格化したのではなく、照井氏の守護神「照日権現」がそのまま水神として地区住民の尊敬の念を集めたのでしょう。 水を操る照井氏ですから、当然水神に対する崇敬の念も濃厚であったはずです。 ちなみに、供養会の情景を描いた民話の中で兄弟たちを戒めたのは「池月城主」でしたが、その池月城のわずか1キロメートル余り西方には水神――瀬織津姫――を主祭神とする「荒雄川(あらおがわ)神社」が鎮座しております。当然池月照井氏はなんらかの形でこの神社を管掌していたと考えられます。そしてこの神社は藤原秀衡が奥州一之宮として崇敬しておりました。 秀衡は何故首都平泉でも安倍氏の拠点であった奥六郡でもなく、照井王国の中に一之宮を定めたのでしょうか。 民話のわずかな描写から推測を広げるのは危険ですが、兄弟を戒める役柄でわざわざ語り伝えられた池月城主は、特に信心深い照井兄弟のリーダー格であっただろうことは容易に想像がつきます。一方で兄弟たちが引っ張りだこにした鹿ヶ城主はもちろん誰もが親しくしておきたい存在であったのでしょうが、民話の内容からはこれが照井の者なのか中央の目付の者なのかの判別がつきません。 私は、秀衡が荒雄川神社を奥州一之宮に定めたのは、他でもない照井氏の祀る神であったからではないか、と想像します。照井氏は、例えば母系実家筋の安部氏のように奥州藤原氏にとって単なる家臣以上の存在であったのではないでしょうか。 また、荒雄川神社のあるこの池月地区から照井城と呼ばれる丸山館のほぼ中間に「荒脛巾(あらはばき)」という地名があります。 これは当地にある「荒脛巾(あらはばき)神社」に因むことは間違いないでしょう。 この代表的なエミシの神が鎮座していることから考えても、この周辺がなんらかの先住民族の巣窟であったことが窺えます。これが照井一族に連なるものか否かは断定しかねますが、関係を疑うことくらいは許されるでしょう。 |
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