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歴史上、浅間山噴火の噴出物は想像を絶するほど大量で、それは日本国内にとどまらず地球上の気候にまで影響を及ぼしたこともあったと考えられております。 理学博士の村山巌さんは、フランス革命の遠因として、1783年の浅間山噴火を上げておりました。 現在では、それをアイスランド火山の噴火に因るものと考える説が多数派になりつつあるようですが、そのとおりそれが浅間山ではなくアイスランドのラキ火山であったにしろ、だいぶ世論が変わったものだと実感します。 かつて村山さんが浅間山噴火遠因説を提唱していた頃は、火山噴火に思想革命の原因を求める発想そのものに批難が集まっておりました。 しかし、火山の噴火が気候に多大なる影響を及ぼすことは疑う余地もなく、しかもその火山灰が成層圏に達し、ジェット気流などに乗った場合はかなり遠くまで運ばれていく事実は認めるべきでしょう。 フランス革命は、もちろん思想革命でもあったのですが、そのような思想の革命の裏側には往往にして社会不安があるというのが私の持論です。 度々触れているとおり、鎌倉仏教の発展は末法思想とモンゴル帝国への恐怖が育てたものとするのが私の仮説ですが、同じ理屈です。 よく考えればあたりまえの話なのです。 不安や不満がないならば、あえて満足な生活を変えたい人などいるわけがないのですから革命の「か」の字も生まれるはずがありません。 村山さんは、浅間山の火山灰が偏西風なりジェット気流なりに乗ってヨーロッパの気候に変動をきたし、農作物に悪影響を与えたと考え、それによって農業王国のフランス国内に社会不安を生じさせた、と考えたのでした。 火山灰が地球の裏側にまで到達する傍証として「黄砂現象」や第二次大戦で日本軍が使用した「風船爆弾」などを挙げておりました。 先に触れたとおり、これは24〜25年くらい前はかなり批難されていた説ですが、おりしもソ連のチェルノブイリ原発の爆発事故によって世界中が放射能の雨に怯えることになり、おかげでにわかに私もその説を信じ始めたものでした。 話を浅間山に戻しますが、もちろん日本でもその噴火が史上稀な惨劇「天明の大飢饉」を“増幅”させたと考えられております。 今あえて“増幅”という言葉を強調しましたが、この大飢饉においても、かつては浅間山噴火がその“原因”とされていたのですが、飢饉の初見が噴火より時期がやや遡っていることからその説は成り立たないとして、現在では軌道修正しつつあります。それでも「浅間山噴火の影響はあり得ない」と完全否定しきるような極端なリバウンドにはなり得ないことでしょう。少なくとも飢饉が5年間にも及んでしまった原因にはなっていたことでしょうから・・・。 なにしろ、少なくとも天武天皇14年(685)の噴火については『日本書紀』が「信濃国に灰が降って草木がみな枯れた」と明記しております。 ただ枯れたわけではありません。 「灰零於信濃國。草木“皆枯”焉」。 “全滅”です。 このとき、天武天皇が大きな期待を寄せていた信濃国営牧場(?)はどうなってしまったのでしょうか。 この天災は天武天皇の心を折るには十分過ぎたはずです。 『日本書紀』はさらりと書いておりますが、草木がみな枯れてなんの混乱もなかったとは考えられません。草木がみな枯れたわけですから、牧草もそうであったということです。 もしかしたら多くの馬が死んでしまったことも考えられます。 それであれば『日本書紀』にそう書かれるはずではないか、というご指摘もあるかもしれません。 たしかにそのとおりなのですが、そもそもこの高句麗系騎馬兵を養成していたのは軍事目的のはずで、おりしも「白村江(はくすきえ)の戦い」の敗戦後である時代背景を鑑みるに、この騎馬軍団の養成目的は「唐・新羅連合軍」の侵略に備えたものであることはあきらかです。 つまり、『日本書紀』の編纂目的が対外的なものであることを重ね合わせたときに、このことは軍事機密であったはず、と想像するのです。 たまたま、さきほど旧日本軍の風船爆弾の話を出しましたが、念のために補足すれば、この風船爆弾とは、文字通り風船に爆弾を仕掛け、それをジェット気流に乗せてアメリカ本土を爆撃するという兵器です。 事実、見事アメリカ本土にそれなりの被害を与えていたようですが、日本軍にそれを知られたくないアメリカ軍部は、諜報されていることの逆手をとって戦略上の報道規制を布いて、さも何事もなかったかのようにやせ我慢していたと聞きます。 アメリカ軍の思惑通りしっかり諜報していた日本軍は、敵国が動揺している様子を掴めず、経費をかけたわりに成果があがっていないと考え、風船爆弾による攻撃は失敗したものと判断し、中止したと言います。 戦時下においてはこのようなことは当たり前のことです。 したがって『日本書紀』にも編纂時のそのような思惑が反映されていてあたりまえだと考えるのです。 さて、信濃の牧民たちは馬ばかりか自分達の生存のためにも避難せざるを得なかったことはあきらかで、大切な馬を引き連れて新天地を探し求めたことでしょう。 天武天皇はその翌年に信濃に行宮(かりみや)づくりを命じておりますが、思うに、離れ去った高句麗系騎馬軍をなんとかこの地に引き戻したかったのではないでしょうか。 天武天皇はほどなくして病に伏し、やがて崩御することとなります。これで、信濃遷都計画はもはや話題にあがることさえ無くなってしまったのです。 一方、高句麗系騎馬軍は結局奥州栗原の地を見つけたようです。 しかし、いくら本来移動に慣れた民族とはいえ、しばらく異国の地の一箇所に釘づけにされていた彼らがすんなりと新天地を見つけられたとは思えません。これを手引きした何者かがいたことでしょう。彼らを奥州栗原の地に手引きしたのは誰でしょうか。 それは、奥州の地勢に精通し、かつ、信濃の渡来人に顔が利く人物――組織――でなくてはなりません。 私は、オホ氏系の信濃国造であろうと考えております。 さて、当の栗原は照井一族のホームグラウンドでありました。 とすれば、この地の高句麗系渡来人が照井一族と無関係に存在していたとは思えません。実際よく考えてみると、照井一族と高句麗系渡来人は属性を共有します。 いずれもアマテル信仰を持つ勇猛な騎馬兵です。 何度か触れておりますが、照井氏はアテルイの末裔を称しているようです。 照井一族がもしアテルイを輩出した一族であるならば、アテルイがずばぬけて強かった理由も、この栗原の高句麗系騎馬軍団に関係があるのではないでしょうか。 そしてまた、そのアテルイが坂上田村麻呂を信じてすんなり降伏したからくりもこのあたりにありそうです。 何故なら、坂上田村麻呂は東漢(やまとのあや)氏の末裔であり、その東漢氏は騎馬戦術を得意とする典型的な高句麗系渡来人だからです。 両雄がお互いに並々ならぬ親近感を覚えていたとしても何ら不思議ではないと思うのです。 余談ですが、もし今書き連ねた仮説が正しければ、元寇で戦没した蒙古兵を供養したとされる仙台周辺の「蒙古の碑――モクリコクリの碑――」建立の謎も、おぼろげながら見えてくる気がしております。
何故なら、伝承によっては、モクリコクリは「蒙古・高句麗」の意味だとするからです。 |
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4/23(金)午前7:55さん、ありがとうございます。
私もそれを見て気になっておりました。少し調べてみようと思います。
2010/4/23(金) 午後 8:55
栗駒山−駒形神社・駒形根神社と、コマの関係も気になりますね。
奥州市水沢区の駒形神社御由緒には、毛野氏・雄略天皇・高麗などの関係が出てきてますし。
2015/9/18(金) 午前 10:10 [ nya*_sa*n_d**u ]
nya*_sa*n_d**uさん、ありがとうございます。
高麗系の人たちが栗駒の地に深く関わっていただろうことは間違いないと考えております。
毛野氏については、どうでしょう・・・。個人的には、陸奥の蝦夷と毛野氏はそりが合わなかったのではなかろうか、と想像しております。
和同元年以降、陸奥守は三代続けて上毛野氏でありましたが、初代は蝦夷との争乱の最中に死亡、二代目は一時鎮定したらしいのですが、その後記録がなく、気が付けば三代目が養老四年に殺害されたという記事です。
戦死、自然消滅、殺害で、三代合わせて12年、というのが陸奥における上毛野―毛野―氏の現実なのです。
2015/9/18(金) 午前 11:10