はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 西木戸太郎藤原国衡の討ち死には、奥州一の駿馬「高楯黒(たかたてくろ)」が泥田に落ちて、身動きがとれなくなったことが決定打となりました。
 その際この名馬は敵方に奪われてしまいました。この地が馬取田(まとりだ)と呼ばれるのはそれ故であり、馬のはまった田については、永年耕作することはなかったのだそうです。
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 さて、私はまだ韮神山におります。
 平安時代、韮神山の下は「憚(はばか)りの関」と呼ばれておりました。現在の風景からはとても想像できませんが、なかなかに苛酷な天嶮であったようです。だからこそ照井太郎高直も利用したのでしょう。
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 かつてここには由緒ある一つの石碑がありました。里人の間では奥州王藤原秀衡によって建てられたものと伝わっておりましたが、残念ながら、明治期の道路改修工事によって撤去されております。
 何故平泉の秀衡が遠く離れたこの場所に石碑を建てたのか、あるいはそう信じられてきたのかは気になるところです。
 もしかしたら、「藤原実方(さねかた)中将」が詠んだ奇妙な歌とも何か関係しているのでしょうか。

 やすらはで 思ひ立ちにし みちのくの ありけるものは はばかりの関

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 この意味を『村田町史』は次のように解釈しております。

――引用――
天皇の仰せにより、ちゅうちょなく思い立って、この陸奥に来た私を、はばかりの関が、自分を通さないというのは、はて、どうしたことだろう

 藤原実方なる貴人は、「あこやの松」を探して鹽竈大神に道を教えてもらったり、一方で名取の笠島道祖神の前でその神を「下賤の神」と侮辱したがために祟られ、その場で落馬死したりと、何やら神がかりに怪しげな末路をたどっております。
 彼は、長徳元年(995)に一条天皇から「みちのくの歌枕を見て参れ」と体よく左遷された人物です。安倍氏と源氏が激突した「前九年の役」勃発の半世紀ほど前の出来事ということになります。
 その頃のこの地は、まだ陸奥安倍氏の本拠地であったかもしれません。
 なにしろ、宮城県南部は奥州安部氏の起源地と考えられます。
 言い方を変えれば、奥州藤原氏の起源地でもあります。
 おそらくその関係でしょう、この地の北方にはかつて「霊感寺」という名刹があり、それは平泉中尊寺に次ぐ奥州藤原氏縁の大寺院であったといいます。
 「霊感寺」――。
 なんとも奇妙なネーミングですが、このエリアには故郷を追われた安倍氏の怨恨が充満していたように思われます。
 例えば村田町の白鳥神社などは、しばしば祟りを為した白鳥八郎安倍則任の霊を祀っているとも言われております。
 なにしろ、『藤崎系図』や『秋田氏系図』によれば、白鳥八郎則任は、前九年の役敗戦後、源氏側の捕虜となって京に護送される道中、石に頭を打ち付けて自殺したとされているのです。
 いずれ、この地に安倍氏の記憶がなければ決して生まれない伝承でしょう。

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閉じる コメント(12)

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韮神山とか千塚(F0RTE裏)とか、なんだか恐くて行く気になれません。
でも東街道を調べていた時にはよく地図とにらめっこしていました。バイパスを挟んだ向かい側(ほとんど川っぺり)に古い街道が残っているんですよねー。
あ、馬取田はよく通ります。あれはきっと根無藤へと抜ける逃亡ルートですよね。
ところでところで、実方中将の頃の陸奥守の居館て、どこなんでしょうね? 笠島の道祖神さんは賀茂の出雲路にある道祖神のところの娘の霊をなぐさめたもの、だそうですよ(性の神々・西岡秀雄著)

2010/5/12(水) 午後 11:44 [ COZY ]

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COZYさん、ありがとうございます。

陸奥守の居館・・・。どこでしょうね。岩切あたりでしょうかね。

笠神道祖神の話は『源平盛衰記』の記述ですね。
「都の加茂の川原の西一条の北の邊に御座する出雲路の道祖神の女」が商人に嫁いで親に勘当されて陸奥に流れて云々という話ですよね。
中西利憲さんは『笠島道祖神考』の中でこれを否定して「岐神と申す神を御祀りしたのである」と断言しておりますが、どうなのでしょう。可能性は高いと思いますが正確なところはやっぱりわかりません。
いずれ出雲系のなんらかではあるのかな、と考えてはおりますが・・・。

2010/5/13(木) 午前 0:34 今野政明

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実方中将は、このとき何処から何処へ行こうとして笠島を通ったのか、が気になりまして・・・。
笠島の塩出山も古墳群、つまりなんらかの霊地です。そこから南へ下る坂を黄泉津平坂になぞらえれば、「クナド神」(あ、怨霊信仰の匂いが・・・)が必要なこともわかります。では、どーして陸奥守・実方がここへ・・・?

2010/5/14(金) 午前 10:41 [ COZY ]

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COZYさん、ありがとうございます。

実方がそこを通った理由など、考えたこともなかったですね。
少なくとも、鹽竈大神と遭遇したときとは違うと思います。
何故なら、そのときは出羽に到達しているからです。
実方は鹽竈大神と思われる老翁に「陸奥の阿古屋の松」がどこにあるかを尋ね、それが出羽にあることを知りました。
出羽は当時の陸奥国から既に割譲されていたのでわからなかったようです。
しかし結局は出羽のそれにたどりつきました。なのでそのときは落馬死していないと思うのです。

まあ、なにしろCOZYさんがお詳しいとおり、そこは古代の大動脈ですから、幾度となく通るはずだとも思うのですが、祟られる直前に道祖神の正体を知ったわけですから、やはりそこもはじめて通ったということなのでしょうかね・・・。
いや〜わかりません・・・。

2010/5/14(金) 午後 9:44 今野政明

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すいません、憚りの関(第二勿来の関)から話題がそれていますね。
「阿古屋の松」のそばにはもう一つの実方中将の墓があるそうです。
岩切(推定・陸奥守居館)と阿古屋の松の間のルートならば、七北田川沿いに遡上して、そこから芋沢にでて関山というルートが現実的です。笠島はあんまり離れすぎているのです。なぜ塩手山で死んだことにしなければならないのでしょうか。「塩」つながり・・・?とかってベタですね。失礼しました。おやすみなさい。

2010/5/15(土) 午前 0:31 [ COZY ]

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COZYさん、ありがとうございます。

阿古屋の松のそばの墓ですか。まあ、あり得ますよね。
落馬した場所(不本意な地)であれば地縛霊的供養、よく交通死亡事故現場にいつまでも花などが添えられますが、あれに近いと思います。
しかし、故人の意思(遺志)は間違ってもそこにはないと思います。故人の尊厳を尊重するならば、少なくとも陸奥においては阿古屋の松がふさわしいと思います。
私見では、実方は暗殺されたのだと思います。それが土着民によるものか、朝廷側によるものかはわかりませんが、いずれ怨霊化を恐れた主犯者グループが道祖神の監視下に祀ったのではないかと想像しております。

塩の件、ベタ過ぎだなど、とんでもございません。面白い着想だと思います。
少なくとも、韮神山向かいの船岡山の地名に塩の気配が濃厚ですので・・・。

2010/5/15(土) 午前 6:21 今野政明

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「はばかり」といえば便所のことなんですよね。道祖神を下賤の神としたのは、それが性器を模ったコンセイサマ、あるいはショウキサマなど性神であったためでしょうね。そして藤原実方の怨霊は、雀に化し稲を荒らす疫神になったとある。やはり平家方の将、斎藤別当実盛は稲の切り株に躓いて討ち取られたことから、稲を荒らす害虫と化したそうですから、ここに虫送りの呪術が見え隠れしますね。
虫送りは作物を荒らす害虫や害鳥を村境まで追い出す行事で、そこには道祖神が祀られ、焼かれますからこれらの伝説はここに着想して語られたものでしょうね。国衡が泥田に馬を踏み入れて身動きできずに討ち取られたのは、『平家物語』などで語られる木曽義仲の戦死の場面に酷似しますし、斎藤別当実盛は義仲と関係が深く、松尾芭蕉の俳句として知られる「無残なや、甲の下の、きりぎりす」は斎藤実盛の所用と伝わる兜を見学した際に詠んだ句ですから、上記の伝説はこれらを連想してつなぎ合わせ、江戸後期以降に成立したんではないですかね。

2015/2/20(金) 午後 6:14 さっと

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さっとさん、ありがとうございます。

「はばかり」が便所というのは、便所を指す言霊を直接用いることに「はばかり」があったから使われるようになった隠語のような気がしております。現代でも「お手洗い」なり「用を足す」などと遠回しな表現をしますしね。

虫送りで思い出しましたが、羽黒修験には、大晦日、ワラで作った巨大なツツガムシの修法なり神事があります。
それは最終的に焼き払われるわけですが、昔の人にすれば、刺されれば死ぬこともあるツツガムシにダニという認識はなく、魔物の脅威に捉えていたようです。

「秋の峯入」の際に唐辛子やドクダミなど刺激臭の強い薬味を炭火に加えてその煙で修行者をいぶす「南蛮いぶし」などもありますが、思うに同根なのかもしれません。出羽三山神社社殿の分厚い茅葺屋根がそう思わせます。

虫送り・・・。たしかに呪術といえば呪術なのかもしれませんが、むしろ現実的な必要性から生まれたルーティンワークがそのまま神事になったのかな、と感じますね。

2015/2/21(土) 午後 3:06 今野政明

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今野さん、確かに雉撃ちや御花摘みともいいますからね。便所は産所との共通点が見られることから、この世とあの世の境界であり、猫とも関わり合いが深いので、ついそっちに向かいましたが、憚りの関という、進むことを憚られるという奇妙な名からもここが、この世とあの世、即ち鬼の住む異界への出入り口を意味しているんでしょう。
藤原秀衡の建立したという石碑は、かつて奥州街道沿いに建てられたという、金箔押の石塔婆でしょうね。私の住む三陸町越喜来にも、鎌倉から南北朝にかけての石塔婆が二基(かつては三基)ありますが、岩手県内の鎌倉などの古い石塔の分布図をみると、天台の故地に建てられていることから、結界の役割を果たしているんだろうとみているんですよ。
宮城県柴田郡には猫神の石塔が多く、村田町には渡辺綱の伝説もありますから、姥神、即ち三途の川のほとりで亡者の衣を剥ぎ罪の重さをはかる、奪衣婆が見て取れるんですよ。実方が道祖神の怒りをかったというなら、「道祖神の招きにあいて」という出だしで始まる『奥の細道』とは逆で、塞ノ神に道を憚られた藤原実方は招かれざる客であったということなんでしょうね。

2015/2/21(土) 午後 5:18 さっと

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南蛮いぶしも祓で、狐などのケモノ(獣・化物)を狩り出す方法で憑き物落としに使われますし、「焼きかがし」で匂いにより害獣を追い払うという、案山子の由来ですから、元々は斬首された人間の首や磔にされた死体を魔除けとして使った名残ではないかとみてますが、藤原実方の場合は怨霊となり、稲を荒らす入内雀となったが故に、憚りの関、塞ノ神(道祖神)がいる地に、この実方の通行を阻む歌碑が建てられたと考えられるので、これら実方伝説の意味するところは、ほぼ間違いなく、害鳥を払う民俗行事「鳥追い」の結界でしょうね。

2015/2/21(土) 午後 5:20 さっと

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元々は天台宗や奥州藤原氏などの為政者によって造られた結界なんでしょうが、鎌倉の討伐を受け荒廃していた松島寺を瑞巌寺として仙台入府に先駆けて復興したのが、陸奥守や大崎探題の称号にこだわっていたという奥州王伊達政宗ですから、私はこれらの伝説は、政宗、仙台伊達藩の意向を汲んで造られたものと見ているんですよ。いやもしかしたら、もっと大きな呪力により政宗も動いたのかもしれませんけどね。そういう視点で見ていると、東北の歴史に纏わる奇妙な謎が一つ一つ繋がってくるんですが。

2015/2/21(土) 午後 5:43 さっと

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さっとさん、ありがとうございます。

実方はあきらかに不自然な死に方をしており、先の方へのコメントでも書きましたが、それが朝廷によるものか、土着民によるものかはわかりませんが、私は暗殺であったとみております。
これは当然怨霊化する―と考えられていた―わけであり、それを加害者が恐れたことは察するに難くありません。
したがって、そこになんらかの鎮魂の要素があったことは間違いないでしょうね。

2015/2/22(日) 午前 1:18 今野政明


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