はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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日本三大駒

 おしなべて坂上田村麻呂伝承が多い東北地方においても、田村郡――福島県――のそれは他を圧倒して抜きんでております。それもそのはず、この地の市邑「三春(みはる)」を拠点とした田村氏は、自らの始祖に坂上田村麻呂を掲げており、言うなればこの地は田村麻呂伝承のエルサレムとでも言うべき聖地であるのです。
 『三春町史』において執筆者の一人である田中正能さんは、「山川草木、ほとんど一木一草に至るまでといってよいほど田村麻呂伝承を持っている」と語り、加えてなにか奔放に書けない事情でもあるのか「これを否定すると、利害関係のある寺院・神社などの否定につながるほどに、人々の社会生活に密着している」と、微妙に揶揄(やゆ)が混じりがちでもあります。
 さて、当地の名産品「三春駒」は、典型的な“田村麻呂産業”と言えるかもしれません。田村麻呂伝承を否定してしまったら三春駒の“ありがたみ”はだいぶ割り引かれてしまうことでしょう。
 三春駒は神がかりなありがたみの歴史に立脚しているのです。橋本長芳さん作の三春駒に添付されていた説明書から引用します。

――引用――
 日本三大駒の一つとして最も有名な三春駒の由来はかなり古く、延暦十四年の昔(千二百有余年前)坂上田村麻呂将軍が大滝根山(三春城外)の石窟に住む大多鬼丸という夷賊征討の為、平安京を出発するに際し京と(ママ)清水寺の開祖と云われる帰依僧延鎮上人が五体の仏像を刻んだ余材で鞍馬百疋を刻み将軍に贈った。将軍これを鎧櫃に蔵め、征夷の途に上り、戦は開始されたが、官兵は遠路に疲れ苦戦状態であった。其時どこよりともなく鞍馬百疋が官兵の陣営に走り込んだ。兵士達は急に元気百倍、その馬にまたがって大滝根山に攻め登り凱旋を奏する事ができた。
 昔から不思議にも木馬を弄ぶ子供は弱者も強健に育ち、子なき家には子宝が授かり、ホーソー、ハシカも軽いというので子育駒の名が立ったのである。
イメージ 1
橋本長芳さん作の三春駒

 私はこの伝承を重視します。苦戦中の田村麻呂を助けた“鞍馬”すなわち“駒(こま)”の霊力が三春駒の由来ということになります。三春駒は田村麻呂を助けた馬100騎の霊力の形代である、あるいはそう考えられ、根強く伝わっているのです。ここには、馬に対してある種トーテミズム――祖霊信仰――に近い崇敬心すら感じます。
 ちなみに、ここに書いてある「日本三大駒」の残る二つは、青森県の「八幡(やわた)駒」と宮城県の「木ノ下駒」になります。
 宮城県の「木ノ下駒」の由来も見てみましょう。こちらは「陸奥國分寺」頒布の木ノ下駒添付の由来によるものです。

――引用――
聖武帝の昔(約一千二百数十年前)奥州仙台の木の下に陸奥国分寺の創建があった。往時より国分寺の境内で恒例として馬のせり市が立てられ、その市で多賀の国府は駿馬を選び買上、時の帝え献納する慣習があり、駒牽の盛儀に選ばれた良馬は左馬寮の官人が近江の逢阪や美濃の不破関等え駒迎えとして遣わされ朝廷では駒迎えの節会と称する歌会や、賀宴が催された。その献馬の胸に「うまかた」というものを掲げて行った。此の馬形が玩具として木の下駒の作り出された始めだと伝えられ当時から馬の厄災を除く為に神棚にかざり、あるいは厩に懸けて守護神として愛重されました。現今では、仙台の代表的民芸品としてお祝い品記念品等に広く用いられ全国的に有名であります。
木の下駒は鞍掛に菊花の模様、胸掛には赤地に五条の白線が引いてあるのが特徴とされ単純粗野の中に着色形態の奇抜さも愛くるしく、古来より日本の三大駒と称される三春・八幡の両駒と共に蒐集家に愛好されて居ります。

 何やら三春駒の由来よりもだいぶ現実的です。歴史的な考証に重きをおくならば、信憑性の上ではこちらに軍配が上がりそうですが、なにしろつまらないと言えばつまらなく、実質的なご利益を期待する立場ならば、心もとないと言えば心もとなくすら感じてしまいます。
 三春駒の神霊性に対し、木ノ下駒は土産品の域を抜け出ていない感も否めません。
 しかし、木ノ下駒の起源が聖武天皇の御代まで遡るとするならば、田村麻呂征討時代、すなわち桓武天皇時代に起源をみる三春駒よりもおよそ半世紀ほど遡る歴史があるということにはなります。
イメージ 2
陸奥國分寺領布の木ノ下駒

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今野邸で実現した三春駒と木ノ下駒の歴史的対面

 一方、青森の「八幡駒」に至ってはだいぶ時代が下り、今から700年ほど前に起源をみます。
 三春、木ノ下より500年以上も下るモノとあれば、二次的に発祥したものと考えて一旦区別しておいた方がよさそうです。
 ところで、今、あえて「八幡“駒”」と表記しましたが、これは実は誤りです。これは「三大“駒”」に韻を合わせた俗称に過ぎません。俗に「八幡駒」と呼ばれるものは、厳密には「八幡“馬”」なのです。“コマ”ではなく“ウマ”なのです。
 何故青森のそれだけは“ウマ”なのでしょうか。
 ウェブ上某所の記事によれば、そもそもコマとは若い馬や子馬のことを指すとのことで、古い八幡馬は四輪の台車に乗った親子馬であったようで、少なくとも一方が「大人の馬である」からコマとは呼ばないのだそうです。
 八幡馬は、青森県八戸(はちのへ)の「櫛引(くしびき)八幡宮」の例大祭、流鏑馬(やぶさめ)の儀式の際、土産品として売られるようになったのだそうですが、そもそもの起源としては、700年ほど前に八戸の天狗沢に流れ着いた京の木工師が、塗り物業を営む傍らに作っていた玩具から始まったようです。
 なにはともあれ、1200余年前に起源があるとされる「三春駒」や「木ノ下駒」に比べると、八幡馬はだいぶ新しいもののようです。姿形は似ておりますが、おそらく三春駒なり木ノ下駒を知る信心深い職人が、櫛引八幡宮の流鏑馬神事の土産にふさわしいものとして、三春や木ノ下の古式にあやかって摸したものが八幡馬なのでしょう。
 ところで、わずかばかりの憎まれ口を叩くならば、駒を「子馬」とするのは後世の語呂合わせではないか、と疑っております。
 思うに、「駒」は「子馬」ではなく「高麗(こま)」のことでしょう。
 たびたび触れているとおり、馬は高麗――高句麗――の強さを象徴するものでもあります。
 したがって、古代における「駒」は、高麗人が育成した強い馬のことのみを指したのではないでしょうか。
 その意味で、奈良期〜平安期に起源がある三春駒と木ノ下駒は、やはりあくまで高麗系のコマ、現代風に言えばサラブレッド、すなわち馬世界(?)の優良ブランドであり、みだりにそれを冠してはいけない名称であったのかもしれません。
 もしかしたら八幡馬推進の主宰者は、そのあたりに遠慮したとも考えられます。
 あるいは、全く逆なことも考えられます。
 「駒」を高麗系渡来人に対する“差別用語”と疑ってみるのです。八戸の八幡馬が、“駒”ではなくあくまで“馬”にこだわる理由は、もしかしたらそのあたりに原因がある“極めて切実なもの”だったのかもしれません。もちろん勝手な想像です・・・。
 なにはともあれ、田村郡三春町には、江戸時代の領主秋田氏の痕跡も濃厚です。秋田氏とは、前九年の役で戦死した安倍貞任の遺児高星の裔を称する一族です。
 征服者と被征服者――。
 時代こそ異なれど対象的な両極の英雄の面影が混在しているこの聖地を、私はしばし散歩してみたいと思います。

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