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『桃生(ものう)郡誌』に目を通しておりましたら、一つ妙なものが目に飛び込んできました。 ――引用―― 〔道鏡と稱する碑〕桃生城に登る道側の畑地にあり。中央に「道鏡」の二字其右旁に「方法」左旁に「一如」頭に梵字一字あり。 桃生城に登る道に「道鏡(どうきょう)」と記された碑があるというのです。道鏡とは普通に考えれば、人臣の身でありながら史上唯一“天皇になりかけた怪僧”「道鏡」のことでしょう。その時代であれば人臣中最高権力者であった道鏡ですが、称徳(しょうとく)女帝崩御に伴い失脚して以降、現代に至っても尚、むしろ“奸物扱い”に貶められた彼が、左遷の地である下野(しもつけ)国――現:栃木県――ならまだしも、何故この陸奥国の辺境にわざわざ碑を建てられてまで供養(?)されているのかは不思議なことと言わざるを得ません。 この郡誌は大正十二年に発行されたものですが、桃生郡は数年前の平成の大合併によって全域「石巻市――宮城県――」に含まれることになりましたので、現在では既に存在しない郡となっております。それでも、桃生町という地名自体は残されておりますので、他県の方でも地図で探しあてることは容易に出来るでしょう。 太平洋から奥州一の大河「日高見(ひたかみ)川――現:北上(きたかみ)川――」を遡った場合、「栗原(くりはら)――現:宮城県――」や「胆沢(いさわ)・江刺(えさし)――現:岩手県――」といった蝦夷の巣窟への分岐点、逆に言えばそれら上流の蝦夷らが河上から下ってきた場合の合流点でもある桃生は、当然ながら大和朝廷側の古代東北経営の上でも大変重要な拠点であっただろうことは想像に難くありません。 「桃生(ものう)」という地名が、モノノフ、すなわち「物部(もののべ)」から派生したのではないか、とさえ言われ、それがなかなか説得力をもって見えるのも、ヤマトに先んじて陸奥に進出して――あるいは落ち延びて――、蝦夷と交流を持っていたと想像される物部氏の属性が、桃生の地勢的背景にピタリと符合するからなのでしょう。 なにはともあれ、まずはその「道鏡と稱する碑」なるものをこの目で一目見てみんと現地に赴いた私ですが、なにしろその情報源は大正時代の郡誌です。一抹の不安はありましたが、結論から言えば、案の定見つけられませんでした。 なにしろ、現地付近で計四名の住民に尋ねたのですが、誰もその碑の存在を知りませんでした。 しかし、この地で最も歴史に詳しいと自称するご婦人のお話はいろいろ勉強になりました。先年には桃生城調査に関連して蝦夷研究の第一人者である高橋富雄さんも尋ねて来られたとのことで、そのときのお話などもお聞かせいただき、おかげさまで有意義な時間を過ごさせていただきました。 余談ながら、彼女は60年前にこの桃生城下に嫁入りしたとのことですが、地元の歴史にとても詳しかったという舅様からさんざん話を聞かせられたのだそうです。そのため、実の父の話をのらりくらりと逃げていたご主人よりも家の歴史に詳しくなっておられ、思わず微笑ましさすら感じました。なにしろ、私はそもそも道端で草むしりをしていたご主人にお声掛けをしたのですが、「ばあさんの方が詳しいから」と、家の中にいらっしゃる奥さまをご紹介いただいたのです。 それにしても、ご婦人の話によって、桃生城への登り道自体が現在のそれとは異なっていることを知りました。大正時代の記述であればおそらくそちらの道であろう、と言うのです。しかしどうやらその道は私有地のようですが、ご婦人のお宅は大地主のお一人のようなので彼女に許しを得て入り込ませていただきました。途中、同様にそのあたりを所有されていらっしゃる風の方が除草作業を行っており、極めて不審人物を見るような目で凝視されたのですが、ご婦人の名を使わせていただき、事なきを得ました。 さて、確認は叶わなかったものの、この地に道鏡を明記した碑があった事実は重要です。このことで、和邇(わに)氏の部民であると考えられる道嶋(みちしま)氏――丸子(まるこ・まりこ・わにこ)氏――が桃生城と深く関わっていたことがより鮮明になるからです。 道嶋氏は、蝦夷でありながら「国造(くにみやっこ)」の上をいく全国唯一の「大国造」なるものを任されるほどヤマト朝廷の信頼が厚かったわけですが、何を隠そう道嶋氏をそこまで信頼して引き上げた天皇は、「孝謙天皇」すなわち「称徳女帝」なのです。 彼女は、自らの血を恨んでいたと考えられます。 特に、謀略につぐ謀略でライバル達を失脚させ、こともあろうに天皇家内部にまで魔の手を伸ばし、長屋王など反藤原系皇族を抹殺し続けた母方の藤原氏に対しては、痛烈ともいえる嫌悪的感情を抱いていたフシがあります。 何を隠そう、実力をつけて孝謙上皇となった彼女が最も力を入れて取り組んだ改革が、それこそ“藤原氏つぶし”であったと思われます。彼女は、相変わらず天皇家の影の支配者たらんと企んでいた太政大臣藤原仲麻呂――恵美押勝(えみのおしかつ)――を、彼の傀儡天皇と化しつつあった淳仁天皇もろとも容赦なく叩きつぶしました。 そしてそのとき、あの坂上田村麻呂の父親である「坂上苅田麻呂(さかのうえかりたまろ)」と共に、桃生周辺に縁ある蝦夷の雄「牡鹿嶋足(おじかのしまたり)――道嶋嶋足――」が大活躍しているのです。 『続日本紀』には次のようにあります。 ――引用:宇治谷孟さん全現代語訳『続日本紀(講談社)』―― ――天平宝字八(764)年―― 九月十一日 大師の藤原恵美朝臣押勝が謀反を企てていることが、はっきりと漏れてきた。高野天皇は少納言・山村王を遣わして、中宮院(淳仁天皇の御所)の駅鈴(えきれい)と、内印(天皇の御璽(ぎょじ))を回収させた。押勝はこれを聞いて、息子の訓儒麻呂(くずまろ)らに待ち伏せさせ、これを奪わせた。天皇は授刀少尉(たちはきしょうじょう)の坂上苅田麻呂(さかのうえかりたまろ)と授刀将曹(しょうそう)の牡鹿嶋足(おじかのしまたり)らを遣わして、訓儒麻呂らを射殺させた。 高野天皇とは孝謙上皇――称徳女帝――のことです。
『続日本紀』によれば、この後、嶋足と苅田麻呂は従四位下を授けられ、更に嶋足は牡鹿宿禰の姓を、苅田麻呂は坂上大忌寸の姓を賜った、とあります。 そしてその後、淳仁天皇を廃帝して彼女が称徳天皇として返り咲いた後、嶋足はますます官位を上げ、大国造になったのは前に触れたとおりです。 あくまで私の想像ですが、恵美押勝ら藤原系既得権勢力を徹底して叩きつぶした称徳女帝であればこそ、坂上氏や道嶋氏のような新興勢力を重宝したのではないでしょうか。 そしてその右腕が怪僧道鏡でした。 このような背景を思うに、私は、桃生の道鏡の碑は、称徳女帝と道鏡によって著しく出世をさせてもらった道嶋一族の末裔が、自家の華やかなりし時代を偲んでひっそりと建立したものではないか、と考えるのです。 |
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