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「牡鹿柵」最有力候補の旧矢本町赤井に隣接して「小松(こまつ)」という地名があります。宮城の県民歌とも言うべき民謡『大漁唄いこみ――斎太郎節――』の舞台として、一番「松島」、三番「石巻」の間に登場する二番がこの「小松(原)」です。 前は海 さ〜よ〜 後ろは山で 小松原とえ〜 正直なところ、このような地勢はどこにでもあり、お世辞にも松島・石巻と並び称されるほどのインパクトはありません。しかしだからこそ逆にこの小松が謎めき、また、この民謡の示唆についても想像を巡らせてしまうのです。 この民謡には松島の「瑞巌寺(ずいがんじ)」の名が登場しておりますが、瑞巌寺という名前は衰微していた延福寺(えんぷくじ)を中興した伊達政宗が命名したものですから、それこそこの民謡が政宗以降に作詞されたものと想定できます。 瑞巌寺には、仙台城同様の御成門や上々段の間という「天皇の行幸に備えた施設」が用意されておりました。これらが一外様大名の施設としては極めて狂気じみたものであったことは前に触れました。 また、瑞巌寺は、『東奥老士夜話』の記述が正しければ、万が一幕府軍と一戦交えることとなり、敗退してしまった場合の政宗の切腹予定地でもありました。 とにかくこの寺は政宗の野心の全てを集約したものであったと言えるでしょう。 一方、石巻も、政宗が天下への野望を捨て、平和的に100万石の領土を回復せんとした一大事業「買米制度」に関連して、米の一大貿易港として北上川河口に繁栄を極めておりました。 それに対して小松には一体何があったというのでしょうか・・・。しかしもしかしたらそれはあくまで現代人の感覚なのかもしれず、この民謡が生まれた当時には、小松原はあたりまえに名高かったのかもしれません。 小松周辺には、源義経愛玩の「八本(やもと)の鷹」が水を飲んだという「鷹の池」が、今も地名に残っておりますが、それであれば私は同時にこの地の鉱脈にも注目します。 『矢本町史』には次のようにあります。 ――引用―― 下小松北部および小松と矢本・大曲の間にはさまる水田地帯には作土の直下に沼鉄鉱の分布が認められている。工業技術院地質調査所の調査によると次のようである。すなわち「この鉄鉱は沖積層中に層状をなして存在し、多少の地盤隆起によって海岸の沼沢地となった時に、含水鉄が酸化して、水酸化鉄として沈殿し生成されたと考えられる。 〜中略〜 この褐鉄鉱は一字ボツクロン(鉄肥料)という商品名で売り出され、かなりの販路をもっていた。 ちなみに、「舎人」とヘラ書きされた須恵器が発掘された隣接「赤井」の地名は、全域で鉄分の多い赤水が湧くことからつけられた地名のようです。 谷川健一さんや大和岩雄さんは、よく鷹伝承と鍛冶を因果づけて論を展開しておりますが、その意味からは、この地は十分にそれらを疑うに足る条件がそろっているということになるのではないでしょうか。 古代のこの地になんらかの繁栄があったのだとすれば、そのこととこれらの鉱脈が無関係だとは思えません。そもそも、道嶋氏――丸子(わにこ・まるこ・まりこ)氏――は、その管掌エリアから考えて、東大寺の大仏建立に大きく貢献した小田郡の産金とも無関係ではないでしょう。彼らは金属に精通した一族であったと想像します。 ところで、実はこの地にはもうひとつ気になるものがあります。 前にさらりと触れておきましたが、“照井氏の痕跡”です。 佐沼郷土史研究会の『迫町の人物誌』の照井高直の項には、関連地名として「矢本赤井の照井城」という記述がありますが、『矢本町史』によれば、これは近世「城(じょう)赤井――上赤井――」と呼ばれたところのようで、現在「須賀神社――旧祇園社――」があるあたりのようです。 『桃生郡誌』には「〔照井圍〕本村上區の西端に在りて古平泉藤原氏家臣照井太郎の來りしありしと。依て上區を城區ともいふ 照井太郎供養碑と称する古碑あり」あるいは「輝井太郎供養碑なりと口碑に傳ふ」とありますが、その須賀神社――旧祇園社――に照井太郎の供養碑と伝わる徳治三(1308)年八月廿七日銘の板碑があります。 また、このあたりには「館前」「館下」という地名も残されており、なんらかの城下の名残が濃厚であり、それ以上に、「照井前」「照井浦」といった照井氏に直結する地名も現存しております。 また、この地を貫く河川「定川(じょうかわ)」は、かつて「照井川」と呼ばれていたようです。 『宮城県の地名 日本歴史地名体系シリーズ(平凡社)』によれば、手招八幡社には照井高直とその妻の伝説があるといいますし、それはおそらく『矢本町史』にある「手招(てまねき)」の地名伝承のことでしょう。 『町史』によれば「城赤井は照井城とも称し、照井太郎(藤原秀衡の家臣)の居たところといわれているが、ここまで来た奥方が、手招で夫を呼んだところなので手招と称したと伝えられている」のだそうです。 それに関連して「鍋越(なべこし)」の地名伝承もあります。「照井太郎の奥方が隣村小松村の手招から、夫を慕って合図したとき、鍋で定川を渡って上赤井に来た」ことから鍋越と呼ばれたのだそうです。 ここで私は相変わらず想像します。
この地が照井王国であったのだとすれば、民謡『大漁唄いこみ――斎太郎節――』に出てくる「小松原(こまつばら)」とは、本来は「駒ツ原」あるいは「高麗(こま)ツ原」だったのではないでしょうか。 |
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