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古代において、神と天皇、現人神としての天皇と人の間を取り次ぐとされる「中臣(なかつおみ)」であったオホ氏とワニ氏ですが、共通するのはそればかりではありません。彼らは双方とも一祖多氏系譜であり、そして、どうやらなんらかの形で『古事記』撰録に関係するようです。 『日本古代政治史研究(塙書房)』の岸俊男さんは、次のように語っております。 ――引用―― 記の同祖系譜の中で一祖多氏の最高を行くものは、既述のごとく二十七氏を含む建内宿禰後裔氏族のそれであり、十六氏を含むワニ氏の系譜も「臣」姓氏を多く含むという点ではそれにつぐものであるが、全体の氏の数という点ではワニ氏同祖系譜より、神武記に天皇の兄に当る神八井耳命を始祖として記されている十九氏の同祖系譜の方が含まれている氏の数は多い。ところでこの神八井耳命を始祖とする同祖氏族の筆頭として掲げられているのが、記の撰録者安麻呂の属する意富臣(太朝臣)なのである。記の同祖系譜の中で最も雄大なものは建内宿禰のそれであるが、その記中におけるあり方が、ワニ氏の場合などとは異なってやや特殊であることはすでに述べた。ところが意富氏とワニ氏の場合は、ともに天皇の兄を始祖とする点でも近似しながら、しかもとくに記中で特異な存在を示しているようにみられる。この事実は意富氏同祖系譜が、古事記の撰録者のそれであることを考えると、これと併立する同祖系譜をもつワニ氏に関しても、記の撰録になにか関係があるのではないかという疑いを抱かせるのであるが、それはワニ氏と記の誦習者稗田氏との特殊関係を想定するときいっそう強いものとなってくる。 ここで「すでに述べた」とされている建内宿禰(たけのうちのすくね)系譜の古事記でのあり方について補足しておきます。「ワニ氏の場合などとは異なりやや特殊である」とはどういうことかといいますと、岸さんは結論めいた明言は避けながらも「換言すれば大和の西南部在地豪族の統一を示す系譜」と表現しております。誤解を恐れずに解釈するならば、大和盆地西南部を根拠地にするいわば外様勢力を意図的に一系譜にまとめあげたものがタケノウチノスクネ系譜であろう、と言いたいのでしょう。 さて、引用部分にあるとおり、岸さんはワニ氏もオホ氏同様『古事記』の撰録に関わっていると考えております。大和岩雄さんも同様に考えておりましたが、両者の見解は根本的な部分で相異しております。 岸さんは、神事における鎮魂の儀に奉仕する特殊の女性「猿女(さるめ)」の貢上をとおしてワニ氏と稗田(ひえだ)氏――『古事記』誦習者:稗田阿礼の家系――が関係していることに触れ、それがワニ氏を『古事記』の中で特異たらしめた、と想定しておりました。 それに対し大和さんは、「伝承上最大の皇妃出自氏族である水の女――阿礼乎止女――を出すワニ氏が、オホ氏と共に原古事記にかかわっているために、稗田阿礼が作られたのであろう」としております。念のために補足しますと、「水の女」とは折口信夫さんの表現で、『古事記』がいう「みずのをひも」すなわち「ふんどし」のことです。つまり、ふんどしを解いたり結んだりする役目の女性を折口さんは「水の女」と表現し、この水の女が日つぎの御子を養育してそのまま御子の妃になったのだというのです。 岸さんと大和さんは、稗田氏との関係が先か、古事記との関係が先か、あるいは、稗田阿礼が実在していたか否か、というような食い違いを見せております。 いずれにせよ、前に触れたようにワニ氏は蘇我氏と並んで記紀上最も多く皇妃を輩出しているわけですが、意外にもオホ氏の側には皇妃出自の伝承がありません。 それについて私なりに思うことがあります。多分に想像の上塗り的な仮説なので暇話として読み流していただいても結構ですが、私は、神淳名川耳(かみぬなかわみみ)尊――2代綏靖(すいぜい)天皇――の兄である神八井耳(かむやいみみ)命を祖とするオホ氏は、案外10代祟神天皇以前の天皇家そのもの――闕史(けっし)八代――だったのではないか、とも疑っているのです。 ただ少し補足しなければならないのは、この場合に私が想定しているのは、当時の天皇家には祭祀と軍事の二つの顔があったのではないかということです。この想定自体はまるっきり想像というわけではなく、『日本書紀』に次のようにあります。 ――引用:宇治谷孟さん全現代語訳『日本書紀(講談社)』より―― ――神八井耳命は――神淳名川耳尊に譲っていわれる。「自分はお前の兄だが、気が弱くてとてもうまくはできない。ところがお前は武勇にすぐれ、自ら仇人を倒した。お前が天位について、皇祖の業を受けつぐのが当然である。自分はお前の助けとなって、神々のお祀りを受け持とう」と。これが多臣(おおのおみ)の始祖である。 この神八井耳命が弟の神淳名川尊に皇位継承権を譲る際に決定していた役割分担から私は想像するのですが、この神八井耳と神淳名川の約束を額面どおり一子相伝で継承されたものと受け止めるのではなく、祭祀の部分も立派に天皇の権威が成せる業務として捉えてみるのです。つまり、軍事――政治――天皇と祭祀天皇がいて、その祭祀の部分を後にオホ氏と呼ばれた天皇が担っていたのではないか、その表裏一体でもって二元的に天皇家が成り立っていたのではないか、と想像してみるのです。私はそのような意味においてオホ氏が天皇であったのではないかと想像したいのです。その想定が許されるものであれば、オホ氏に皇妃出自の記録がないのは彼ら自身が天皇家なのだからあたりまえ、ということになります。 一方ワニ氏ですが、彼らについても一種不可解な部分があります。 彼らの後、蘇我氏が同様の役割を果たし、その後藤原氏がそれを徹底したことは言うまでもありませんが、蘇我氏にせよ藤原氏にせよ彼らが提供した皇妃が生んだ子からはしっかりと天皇が出現しております。いえ、そのために蘇我氏や藤原氏は天皇家に皇妃を提供したと言うべきでしょう。彼らの権勢の担保は天皇の外戚たることでした。 ところが不思議なことに、ワニ腹の子に関しては10代祟神天皇以降何故か直接天皇として即位した記録がないのです――間接的には事例あり――。 このあたり、春日明神を参詣した旅僧の前に現れた采女の幽霊の逸話を語る謡曲「采女」が、妙に示唆に富むものに思えてきます。この謡曲に登場する采女の霊は、帝の寵愛を受けていながらも、やがてその心変わりに涙を飲むことになり「猿沢の池――奈良県奈良市――」で自殺したとのことでした。 猿沢池のカメ
この場合の春日明神は、そのまま春日大社の神というよりは、やはり地主神の方がしっくり来ますし、それは暗にワニ系采女の示唆と考えるのが自然かと思われます。ワニ氏は所詮“下の世話専門の卑賤の氏族”とでも考えられていたのでしょうか。 いえ、ワニ氏を矮小化して考えることは出来ません。なにしろ、記紀最多の皇妃輩出氏族であることは間違いないのです。先の私の想像の延長でいくならば、もしかしたら陰に埋もれた祭祀系の天皇――オホ系天皇――はワニ腹から誕生していたのかもしれません。 あくまで想像の域を出るものではありませんが、私はアマテラスの母系系譜たるタカミムスビ、あるいは伊勢においてアマテラスに寄り添いその世話を受け持つ豊受――伊勢外宮――の性格は、「水の女」を輩出していたワニ氏の属性の投影と考えてみたいのです。 ちなみに、「我妹子が 寝くたれ髪を 猿沢の 池の玉藻と 見るぞかなしき (あのいとしい乙女のみだれ髪を猿沢の池の藻と見るのは悲しいことだ)――謡曲史跡保存会説明板より――」なる采女への哀悼歌を詠んだ柿本人麻呂は、ワニの一族であることを付け加えておきます。 |
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