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『日本書紀』の21代雄略天皇紀には、「春日大娘皇女(かすがのおおいつらめのひめみこ)」の出生譚として次のような話があります。 ――引用:宇治谷孟さん全現代語訳『日本書紀(講談社)』より―― 元年春三月三日、草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)を立てて皇后とされた。この月に三人の妃を立てた。 〜中略〜 次に春日(かすが)の和珥臣深目(わにのおみふかめ)の女があり、童女君(おみなぎみ)という。春日大娘皇女を生んだ。童女君はもと采女(うねめ)であった。天皇が一夜を共にされただけで孕まれ、女子が生まれた。天皇は疑われて養育されなかった。女の子は歩けるようになった。天皇は大殿においでになり、物部目大連(もののべのめのおおむらじ)が侍(じ)していた。女の子は庭を歩いて行った。目大連は群臣を顧みていった。「麗しい女の子だなあ。古の人がいった『なひとやははに(お前はお母さん似か)』と。清らかな庭を静かに歩くのは、だれの娘なんだろう」と。 天皇が言われる。「なぜそんな風に尋ねるのか」と。目大連(めのおおむらじ)は答えて、「私は女の子の歩くのを見ると、その姿がよく天皇に似ておられますので」と申しあげた。天皇は「この子を見た人がみな言うことは、お前がいうところと同じである。けれども私は一夜を共にしただけで身籠ったのだ。一晩で子供を生むとは異常なので、疑っているのだ」といわれた。大連が、「それでは一晩に何度呼ばれましたか」と。天皇は答えて「七回呼んだ」と。大連が、「乙女は清らかな身と心で、一夜床を共にいたしました、どうして軽々しく疑って、その人の潔らかな身を疑われるのですか。私は聞いておりますが、孕み易い人は、褌が体にさわっただけでも妊娠するということです。それを一晩中床を共にされたにもかかわらず、みだりに疑いをかけられるとは」と申しあげた。 天皇は大連に命じて、女の子を皇女とし、母親を妃とされた。 一晩で孕んだ云々ということはあるものの、ワニの娘の子を認めようとしない天皇の態度ととるべきなのか、あるいは、なんとかして天皇の子を生もうとしたワニ氏の態度ととるべきなのかは悩むところですが、ここで天皇の血筋であることを認めさせようとしているのが物部系の大連であるところは興味深いところです。
ワニ氏と物部氏は浅からぬ縁があります。ワニ氏の勢力圏は奈良盆地北東部に展開していたと思われますが、物部氏の勢力圏は「石上(いそのかみ)神宮」にもみられるようにそれに南隣して広がっております。それどころか、『日本書紀』の垂仁天皇三十九年冬十月の記事には、「一伝」ではありますが、石上神宮の神宝を治める物部首(もののべのおびと)の祖が春日臣の市河なる人物であったことが明記されております。春日臣はもちろんワニ系ですが、『新撰姓氏録』にもこの市河なる人物について「布留宿禰。柿本朝臣同祖」とあり、物部氏にとって重要な石上神宮の祭祀にワニ氏が関係していたことになります。 それにしても、後年の延喜式において神宮号を冠されていた神社は、伊勢の他、鹿島・香取の計三社のみでしたが、それよりはるかに古い『日本書紀』に石上神宮ははっきり「神宮」で記されておりました。何故に延喜式にはそれが継承されていなかったのか、この事実はよく念頭においておくべきでしょう。 石上神宮の神鶏は巨大ですこぶる元気でした さて、雄略天皇の身に覚えがない(?)ワニ系の女性が生んだ麗しき女の子は、後に24代仁賢天皇の皇妃として25代武烈天皇の母親「春日大娘皇女」になります。 武烈天皇といえば同じ『日本書記』においてさんざんこきおろされていた天皇です。 そして私は、ここに我が宮城県栗原の武列天皇伝承を思い出さずにはいられません。京から遠く離れた栗原の地に何故に武烈天皇伝承が流布したのかは不思議でしょうがなかったわけですが、これがワニ系天皇であったことを重ね合わせるならば、おぼろげにその顛末も想像出来そうです。 |
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