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今、私は手持ちの資料ファイルから平成十一(1999)年に仙台市観光交流課が発行した『仙台城 艮櫓 ――仙台城艮櫓復元事業――』という幻のリーフレットを引っ張り出してきて眺めております。
結論から言えばこの事業は頓挫したのですが、宮城県仙台市では、「仙台開府400年記念事業」の目玉として仙台城「艮(うしとら)櫓」の復元構想が持ち上がったことがあったのです。 仙台城本丸の周囲には、断崖以外の部分にはぐるりと市道が周りこんでおりますが、この道路は狭いながらも大型の観光バスが通行するばかりか、ゆうに10万人は住んでいる市内南西部の住宅地群に通じ、それらの生活用道路としても重要なルートになっております。したがって鬱蒼とした森林の中とはいえかなりの交通量があります。 余談ながら、この道路にはインテリジェンスな烏(からす)がおります。道幅がせまいため、車のタイヤが道路上のどこを通過するかもだいたい固定されてくるわけですが、この地ではそれを学習した烏(からす)が車道の然るべき位置に木の実――クルミ?――を置き、通行車両に固い殻を粉砕させるという高度な技を会得したのです。第一発見者は最初単なる偶然かと思っていたのですが、本腰を入れてそれを観察していると、あきらかにその烏は粉砕された結果を期待して車道に木の実を置いていたことがわかりました。 また、それは一羽の烏のみの行動ではなく、引き続き他の烏も同様な行動をしていることもわかりました。彼らはそれを仲間に伝達しているのか、それとも他の烏が見様見真似で始めたものかはわかりませんが、いずれ高度な知能を持ち合わせていることだけは確かなようです。 さて、この道路のそれら車両通行の振動の影響で、当時仙台城の石垣はかなり緩みかけておりました。以前からその危険性は指摘されていたのですが、ついに一度解体して積み直すことになったのです。そしてそれが時期的に開府400年に重なってくることもあり、ついでに目玉事業として艮櫓を復元しよう、という動きになったのです。 この櫓が復元されていれば、都心からも一目で仙台城の位置がわかるようになっていたことでしょう。その当時仙台の観光を含めた経済界は艮櫓の復元計画に意気揚々としておりました。 ところがこれに水を指す一派がおりました。歴史学者です。常々観光名所としての仙台城の心もとなさを憂いていた私も、当初は「学者は頭が固い」と苦笑いしていたのですが、彼らの言い分を聞けば「なるほど反対して然るべきだ」と納得させられました。 というのは、一つには艮櫓が復元されると、現存の石垣とミスマッチになってしまい、歴史上存在しなかった光景を創り出してしまうのです。件の艮櫓はその名のとおり本丸の艮(うしとら)――北東――に存在していたわけですが、しかしそれはあくまで“政宗時代の石垣の北東角”であり、正保三(1646)年の大地震で他の櫓とともに崩壊した後は、二度と再建されることはありませんでした。 石垣については度々修復されていたようですが、現在目に触れ得るものは寛文八(1668)年以降につくられたものといいます。そして、その工法などは政宗時代のものとはまるで異なり、位置も政宗期のそれに覆い被さるように外側につくられております。 つまり現在私たちの目に触れ得る石垣の上に復元予定だった艮櫓が存在していた事実はないのです。せめてこれが同じ位置に再建された石垣であればよかったのでしょうが、現存の石垣は政宗時代の石垣の外側に築かれたものなので、その石垣に合わせて建築するとなれば、当然それ相応の基礎も必要でしょうから、その地下にある政宗時代の石垣を損壊しかねないのです。そうなると国史跡の指定も難しくなり、これが復元中止の決定打になったようです。 もし政宗期の石垣に影響を与えないように史実に忠実に櫓を復元するのであれば、現存の石垣の一回り内側に建造されなければなりません。そうなると、石垣のラインと櫓のラインがずれたものになってしまいます。本来櫓は石垣と一体的になってこそ機能するものであり、石垣を登りきったところに踊り場のような場所があったのでは防御力も格段に劣るというものでしょう。いずれ、そのような格好の悪い歪なものになるならばわざわざ高額の予算を費やしてまで復元することもないということになったようです。 それにしてもこのときは私も、どちらがあるべき姿なのかをいろいろ考えさせられました。例えば、大阪城ですが、実は現在私たちの目に触れ得る大阪城はあからさまに史実を無視したものなのです。それは天守閣が鉄筋コンクリート造だからという問題ではありません。現在の大阪城の堀も含めた基本構造は、大坂の陣で豊臣家が滅びた後に徳川家によって築かれたものです。しかし秀吉好きの「なにわっ子」は、天守閣復元の際はあくまで秀吉風にこだわりました。徳川時代の白壁天守閣ではなく秀吉時代の黒壁天守閣にこだわったのです。それははたして全く評価出来ないものでしょうか・・・。いえ、これも一つの歴史なのかもしれません。ただ、仙台城の場合はそのような市民感情のようなイデオロギー要素は希薄で、あくまで観光戦略的なものだったので、今はやはり復元されなくてよかったのだろうと思っております。 一方、個人的には、本丸御殿を復元してほしいと思っております。度々とりあげましたが、御成門や上々段の間がある本丸御殿です。藩政時代の御大工であった千田家が仙台市博物館に寄贈した立面図を見るに、この御殿はあたかもあの世界遺産「二条城」のごとき貫録があります――厳密には桃山建築で、お手本は豊臣秀吉の聚楽第とのことですが――。 また、世論を聞くに、大手門復元を望む声も多いようです。大手門は仙台空襲までは残されていたので、わりあいに写真も残っております。昭和初期、仙台城跡は軍部の第二師団として機能しておりました。したがって今は亡き私の叔父もこの門に馬をつけたことがあったそうで、父もそれについていったことがあると聞きました。 大手門は、豊臣秀吉の唐入りの際に築かれた肥前名護屋城のそれを政宗が貰い受け、移築したものだと伝えられておりますが、それを否定する見解もあるようです。 しかし私はやはり伝承どおりだと考えます。何故なら、写真を見るにこの大手門は表と裏でまるっきり建築意匠が異なっており、城内側から見ると六つの華頭窓がほどこされているなど中国風な印象が強いからです。 何故にこのようなアンバランスな意匠に建造したのでしょうか。 秀吉の唐入りは、俗に朝鮮出兵だ、いや朝鮮侵略だ、などと呼ばれ、その表現方法にのみとらわれたイデオロギー論争に波紋を投げかけているわけですが、それはいずれにおいてもあくまで失敗した結果についてのみ該当する名称です。そこにとらわれてしまっては秀吉が成そうとしていた野心がどこにあったのかを見失ってしまうことでしょう。当時はあくまで「唐入り」と表現されておりました。当時の中国皇帝は「明」でありましたが、日本では俗称として「唐」と表現されていたのです。すなわち本来の目的はあくまで中国進出なのです。戦略上においての朝鮮は単に通過点に過ぎません。 ついでながら、絶対に無理なことだとわかってつぶやいてみるのですが、個人的には歴史問題などと銘打ってイデオロギー論争するのはやめて欲しいと願っております。それは右も左も同じです。絶対に願望に走るのは間違いありません。これはとても難しいことで、自戒も含めてでもあるのですが・・・。 いずれ、肥前名護屋城の目的が中国への野望だとすれば、その門は中国への門であり、逆に凱旋した暁には日本への門となります。この大手門は、いわば国境であったのでしょう。だからこそ門の表裏がそのようなデザインで表現されたのであろうと私は考えているのです。 |
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根白石に満興寺という曹洞宗のお寺があります。このお寺の山門は仙台城の辰の口門を移築したものだそうで、貴重な現存する仙台城の建物です。
先日の河北新報によると、この山門は老朽化が激しく倒壊のおそれのために近々取り壊しになるとのこと。児童館が隣接してるし境内が近隣住民の通り道だったりするので安全のためには仕方ないのでしょうが、「門」としてではなく「文化財」として移築・保存ができないものでしょうかね。大手門の再建にくらべればはるかに安上がり。1/10程度の大きさなんで見栄えはしませんが・・・。
この満興寺、政宗公が裁松院の墓参をする際のお仮屋がおかれた寺らしく、晴宗夫妻と政宗公の位牌も安置されています。ただ、この山門は一門格寺院の永安寺が藩から払い下げられたものを再移築したものだそうです。
2010/8/31(火) 午前 1:47 [ sak*r*ta*e ]
sak*r*ta*eさん、ありがとうございます。
その記事は私も読みました。本当に残念ですよね。
その門は、おっしゃるような「永安寺を経て移築された仙台城辰の口の御門である」という話とは別に、「4代藩主伊達綱村が建て替えたもの」とも言われているそうで、もしそうだとすれば、払い下げの更にお下がりというよりも、より強固な藩主の直接的な意思を感じますよね。
2010/8/31(火) 午前 5:42