はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 仙台城――宮城県仙台市青葉区――の裏側一帯には広大な森林があり、江戸期そこは「御裏林」とされておりました。このエリアは現在においても尚「東北大学植物園」として鬱蒼とした森林地帯となっております。それにしても、この森は仙台という広域中心都市の都心部とその後背地となる一大住宅地群の中間に横たわっているわけです。特に昭和以降高度経済成長期やバブル期のデヴェロッパーによる開発ラッシュを経てきたにもかかわらず、未だ高い自然度を維持していることは奇跡というしかありません。なにしろこの地のモミの木などはもはや極相――植物の最終的長期安定形態――と言える状態にあるのです。この極相なり極相林という専門用語(?)は茨城県の鹿島神宮でも目にしましたが、それは古社の神域であったがために意図的に守られて来たのでしょう。しかし仙台のこの地は特別古社の神域というわけでもありません。かと言って東北大の研究施設だからという理屈も成り立ちません。何故なら、植物園として現在のような形で保護されたのは昭和三十三(1958)年以降のことであり、せいぜい50年間の話だからです。樹齢300年にもなるというモミや360年にもなるという杉並木を説明するには尚不足なのです。
 それでは一体何故この森はこれほど自然度の高い状態で残されてきたのでしょうか。
 実は、そこには歴代の軍事的な理由があったのです。
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 まず現在のモミ林が生まれた江戸時代、断崖と渓谷に囲まれた仙台城の天険の防御において、この地は唯一のウイークポイントでもありました。したがってむやみやたらに領民が出入りすることなど当然ながらまかりならず、森全体が仙台城の城域同様に厳重な監視下におかれていたのです。やがて徳川幕府が滅び廃藩置県で仙台藩消滅後、やはりこの地は陸軍施設地として機能しておりました。したがって藩政時代同様民間人禁足地となっていたのです。その後、第二次大戦終戦後、この地は米軍進駐軍の駐留地となり、やはり民間人が立ち入ることなど出来るわけがありませんでした。そして進駐軍が引き揚げた後、この地は東北大学の管理下におかれ、現在に至っているのです。現在も入園料を支払わなければ立ち入り出来ません。
 さて、植物に疎い私が入園料を支払ってまでこの植物園を散策しようと思ったのには理由があります。私は園内に残された通称「蒙古の碑」なる中世板碑を一目見たかったのです。
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 仙台市周辺には「蒙古の碑」と呼ばれる謎の板碑が点在しておりますが、一般的には元寇(げんこう)で戦死した蒙古兵を供養した碑であると言われております。特に鹽竈神社祠官藤塚知明の碑文解読によって「無学祖元による蒙古兵供養文説」が議論を呼ぶこととなった仙台市宮城野区「善応寺」のそれについては、伝承に感動した蒙古連合自治政府の主席「徳王」が昭和十六年に仙台を訪れ、その板碑の前に松を植え、揮毫(きごう)を添えたというエピソードまであります。
 いずれ、これらの碑は奥州藤原氏滅亡後、源頼朝に奥州統治の代理人を任された留守氏――伊澤氏――によるものという説が有力ですが、私はむしろそのライバルであった國分氏によるものであろうと考えております。何故なら、この碑の点在するエリアは現在の仙台市青葉区荒巻「東北大学植物園――御裏林――」、同区八幡「来迎寺」、同区片平「仙台大神宮」、泉区根白石(ねのしろいし)、先の宮城野区燕沢「善応寺」――同区小鶴のものを移転――などで、「善応寺」は微妙に留守勢力圏と重複しそうですが、大勢としては國分勢力圏と考えた方が自然であると思うのです。
 また、これらの板碑はおしなべて百日咳に霊験があるとされており、それは当該エリアに少なからず散見出来るニワタリ信仰にも見られるものです。國分氏はそのニワタリ信仰の徒であったことが確実です。例えば泉区の二柱神社の前身である「仁和多利(にわたり)大権現」は國分氏の氏神(?)であったといいます。このような状況証拠から考えるならば、蒙古の碑は留守氏というよりは國分氏に因果づけた方が自然であろうと思うからです。
 ところで、元寇で戦死した蒙古兵を供養しているとされるこの碑は、古くから「モクリコクリの碑」とも呼ばれてきました。これは「蒙古・高句麗の碑」の意味であろうと推測されておりますが、蒙古人・高句麗人のいずれも馬を操ることに長けたツングース系外国人と言えます。しかし、何故そのように呼ばれてきたのかについては未だ明確な論証がなされておりません。板碑一基の建立には、村一つ分の税収に匹敵する費用が必要といいます。にもかかわらず、何故にっくき侵略者のために高額な板碑を建立してまで供養する必要があったのか・・・。郷土史に精通した諸先輩方々の優れた論考をもってしても、この極めて素朴な矛盾は未だ説明出来ていないのです。その部分に対し、私はこの地の特殊性を疑っております。
 特に蒙古の碑を突き詰めようと考えていたわけではありませんが、オホ氏やワニ氏、照井氏と高句麗系騎馬軍の因果関係などから当地の総体的な本質を考えてきた過程で、副産物として蒙古の碑やニワタリ信仰の核心についてもだいぶ絞り込まれたように思えております。
 一言でいうならば、「この地においてツングース系の魂は鎮魂されなければならなかった」のでしょう。何故ならばこれまで語ってきたように東北地方はツングース系渡来人とは極めて友好的かつ密接な土地柄であったと思われるからです。
 もしかしたら元寇という国家的な災難は、アテルイ、安倍氏、清原氏、奥州藤原氏といった歴代の北方王者たちを滅ぼした、つまりはツングース王国であった東北地方を迫害し続けた怨念が溢れ出したものとでも考えられていたのでしょうか。ひょっとしたら、その供養を任されたのが國分氏であったのかもしれない、などと想像してみております。
 前に福島県の三春を散歩していて、私はふとニワタリ信仰――三春ではミワタリ信仰――分布の法則性に気付かされました。それは、よく言われるような川や海といった水辺にある、あるいは村境にあるなどという地勢的なハードの部分ではなく、陸奥大国造を輩出した丸子(まるこ・まりこ・わにこ)氏の分布に連動している、という人文的ないわばソフトの部分でした。ニワタリ系社寺がダントツ最多で圧倒的に集中する地区は牡鹿郡であり、まさにこの地は丸子氏が道嶋氏として大出世したエリアでした。
 一方、三春については、当該地区の社寺に占めるミワタリ系の割合が異常でありました。そこに、その三春を含む安積郡においても丸子氏が大伴安積連として権勢をふるっていたことを並行して考えざるを得ないのです。
 丸子氏については、ワニ氏の部民と化したオホ氏ではなかったか、と想像しましたが、そのオホ氏は天武天皇直属の特殊部隊「高句麗系騎馬軍」と密接な関係にあったと考えられます。
 このように考えていくならば、ニワタリ信仰と蒙古の碑、そして仮に侵略者であったとしても、陸奥国において蒙古・高句麗の兵が丁重に供養された意味はつながってくるものと想像するのです。
 仙台城本丸跡には、現在「護国神社」が鎮座し、国のために戦没した英霊を祀っておりますが、その南側、あまり目立たない「青葉城本丸会館」厨房裏に「別宮浦安宮」なる少々気になる社殿があります。現地説明板には次のように書いてあります。

――引用――
別宮浦安宮鎮座由来
一、御祭神
 左宮(向って左)
  天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)
  豊受媛大神(とようけひめのおおかみ)
  級長津比古神(しなつひこのかみ)
  級長戸辺神(しなとべのかみ)
 右宮(向って左)
  伊達政宗公
  白水稲荷大神
ニ、由来
 左宮 伊勢神宮四座の神々を祀るは、当社の戦災復興に際し、神宮に於かれては第五十九回式年遷宮の大儀終わるに及び外宮の別宮、風宮御正殿を当社本殿として特に頒賜され爾来諸殿舎の造宮順調に進み大事業が全く達成された因って広大なる神恵に感謝し別宮を造営して昭和四十二年10月二十二日此の処に鎮斎された
 右宮 この地神域一帯は仙台城(青葉城)の本丸である
 藩祖伊達政宗公築城以前は此の地を青葉ヶ崎と称し白水稲荷大社が屋敷神として古くより祀られていた。
 因って以って今往考え厚く根本感謝の誠を捧げ奉らんと慈に祠宇を営み左宮と同日鎮斎された
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 ふと、伊勢の四座のうち、級長津比古神(しなつひこのかみ)・級長戸辺神(しなとべのかみ)なる男女と思しき一対神に目が釘付けになりましたが、表記の漢字にとらわれなければシナ――中国――の男女王神ととれなくもない、と想像してしまいました。
 それはともかく、右宮に祀られている伊達政宗の青葉城以前からの屋敷神「白水稲荷大神」なるものが気になります。伊達政宗以前のこの地の地主は、度々触れているとおり國分氏です。先ほど私が「モクリコクリの碑」を建立した張本人と疑っていた國分氏です。
 一頃、コックリさんという狐の霊を呼び寄せる占いが流行しましたが、そのコックリとは高句麗(こうくり)の意であるという話を聞いたことがあります。そもそも高句麗と稲荷信仰自体が無縁とは思えないわけですが、こたびの青葉山散歩は、そのあたりをよくよく考えさせられる森林浴となりました。

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燕沢の善応寺の蒙古の碑を見に行って、歴史に関心を持つようになりました。。このような裏話があったとは、、、勉強になりました。
ここの植物園には、愛子に繋がる古道があったとか???行こう行こうと以前から思っていました。蒙古の碑を見学に是非行きたくなりました。。

2010/9/2(木) 午前 9:57 M.ROSSO

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ロッソさん、ありがとうございます(^0_0^)

愛子に繋がる古道、ありますよ。最上道という古道がそれだと思います。御裏林は五郎八姫の遊び場だったとかなんとかいう話もどこかで見たことがありますが、出戻り後の五郎八姫は愛子に暮らしていたようなので、なにかしら縁があるのかもしれませんね。
ついでながら、このことも関連して愛子は隠れキリシタンをかくまっていた部落ではないかという仮説もあります。

2010/9/2(木) 午前 11:24 今野政明

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鬼や恐ろしいもの、理不尽なことを「むくりこくり」または「もくりこくり」というらしい。漢字で表記すると「蒙古高句麗」である。すなわち、鎌倉時代、文永・弘安の役(元寇)で日本に攻めてきた蒙古・高麗連合軍のことである。

むくりこくりは、民俗語彙のひとつ。怖ろしいもののたとえ。もくりこくりとも。

元寇の際、2度にわたって蒙古・高麗連合軍が九州を襲ったことを「蒙古高句麗の鬼が来る」といって怖れたことに由来するという。転じて子供のわがままや泣くのをとめるのに「むくりこくり、鬼来るぞ」と脅す風習となったとされる。地方によっては「もっこ来るぞ」という呼び方もある。さらに転じて「むくりこくり鬼」という鬼がいるようにも考えられた。元寇の際の元軍・高麗軍の残虐行為を指す。

泣く子に対して「むくりこくりの鬼が来る」と脅して黙らせるときなどに使う。

文永の役で男は殺され女は辱めを受け島民が根絶やしにされた長崎県壱岐島には、「むくりこくり」という郷土玩具がある。

2011/2/11(金) 午後 1:07 [ アジアや世界の歴史や環境を学ぶ ]

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2月22日竹島の日 歴史を学ぶさん、ありがとうございます。

それが一番有力な由来譚ですね。そのとおりの語源だと思います。

2011/2/11(金) 午後 1:26 今野政明


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