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『日本書紀』に「天香山(あめのかぐやま)」の名がはじめて確認できるのは、天照大神が、弟「素戔鳴(すさのを)尊」の狼藉に辟易して天石窟(あまのいはや)に引きこもってしまったときかと思われます。 太陽の神であるアマテラスにひきこもられては、世界は暗闇に閉ざされてしまいます。そこで、八十万(やそよろず)の神たちは、なんとかアマテラスに引きこもりをやめさせる御祈祷を考え、実行します。そのときの“玉串(たまぐし)”に使われたのが、まさに天香山から掘り起こしてきた榊(さかき)でありました。 また、アマテラスをおびき出すために踊り狂った「天鈿女(あめのうずめ)」の頭飾も、やはりカグヤマ産の榊でありました。神事とはいえ、『古事記』によればこのときの踊りはストリップショーであったようで、今風に言えば“エロカッコイイ”アメノウズメの踊りに、神々はかなりの盛り上がりをみせたようです。 アマテラスは、自分がひきこもって暗黒世界になったはずにもかかわらず、やたらと賑やかな窟の外をいぶかしく思いました。なにより、やんややんやと笑いあふれるその楽しそうな雰囲気が気になり、ほんの少しだけ窟戸を開き、外の世界をのぞき見ました。 ところが、実は八十万の神々はその刹那を狙っておりました。満を持して、待ち構えていた手力雄(たちからお)神がアマテラスの手をとり見事外に引っ張り出すことに成功したのです。 さて、このときのカグヤマは特に人格神化されておらず、あくまで聖なる山の名前として登場しております。 念のために補足しておくと、「カグヤマが高倉下(たかくらじ)である」というのは、あくまで『先代旧事本紀』の記述でありますから、『日本書記』ベースに考えている中でその概念を根拠に据えることは誤っているのかもしれません。しかし、カグヤマを祀る越後国一之宮たる彌彦(やひこ)神社が由緒上両者を同一視していることも鑑み、その旧事紀の概念が一般的認識になっていることも事実ですので、ここではひとまず柔軟に考えさせていただきます。 ちなみに、その『先代旧事本紀』では、タカクラジが神武天皇に献上した韴霊(ふつのみたま)なる霊剣が「亦名布都主神魂刀」であるとされております。これは、石上神宮のフツノミタマと香取神宮の神――経津主(ふつぬし)――が同一であろう、という考え方の傍証となっております。 さて、カグヤマが『日本書紀』の中で、カグヤマそのものとして――人格化したタカクラジとしてではなく――天石窟戸(あめのいわやど)神話の次に現れるのは、イワレビコ――神武天皇――がいよいよ大和入りするに際し、兄磯城(えしき)――磯城(しき)の豪族:弟磯城(おとしき)なる弟も後に登場――の軍勢と対決するときです。 あらゆる要害の地を押さえていたエシキの包囲網に阻まれた神武は、進退極まっておりました。拠所なく、神頼みをして床に就いた神武の夢に、天神(あまつかみ)が現れます。天神は次のように告げました。 「天香山――介偶夜摩(かぐやま)――の社の中の土をとって天平瓮(あまのひらか)八十枚をつくり、あわせて厳瓮(いつへ)――お神酒を入れる瓶――をつくり、天神地祇を敬い祀りなさい。また、厳呪詛(いつのかしり)――身を清めて行う呪い――をしなさい。そうすれば敵は自ら平伏してしてくるでしょう」 神武はこれを受けて、実行に移そうとしておりました。まさにその矢先、「弟猾(おとうかし)」が進言してきました。 「倭國の磯城(しき)邑には、磯城の八十梟帥(やそたける)がおります。また、高尾張(たかおわり)邑――葛城(かつらぎ)邑――に、赤銅(あかがね)の八十梟帥がおります。この連中は天皇に叛き刃を向けようとしております。それがしは、天皇のために一計を案じ奉ります。今、天香山の埴(はにつち)を採って天平瓮を造って、天社(あまつやしろ)国社(くにつやしろ)の神をお祀りください。その後に敵を討たれれば、たやすく討ちはらえるものと存じます」 この弟猾は、これより先に兄「兄猾(えうかし)」を売って神武に仕えていた宇陀(うだ)の酋長です。元々土着の勢力だけあって隣接ライバルの事情には精通していたのでしょうか。 いずれ、神武は自分の見た夢が、オトウカシが進言した内容と一致をみたことで吉兆の瑞夢であったと判断し、オトウカシの計を採り入れました。そしてそれは成功することになります。 ちなみに「磯城の八十梟帥」や「高尾張の八十梟帥」とありますが、もちろんヤソタケルという固有名詞で同名の賊首がいたわけではないでしょう。「八十(やそ)」は「八百(やお)」と同様「たくさん」や「多種多様」というような意味と捉えるのが自然です。 一方、天神がアドバイスした「天平瓮八十枚」も同様で、「たくさんの」という意味に捉えるべきと考えます。仮に、敵の数に合わせた具体的な80枚と捉えるならば、そもそも磯城邑と高尾張邑に“各80”いたということですから、合わせて160の梟帥がいたということになります。80枚では全く足りません。 したがって、ここでは磯城邑や高尾張邑にいる幾多の梟帥をスムーズに倒すためにはカグヤマの土を用いた呪術を施すべきというアドバイスなり提言であったと考えるのが自然となります。 ちなみに、「梟帥(たける)」は、「日本武(やまとたける)尊」に用いられた猛勇を指す「武(たける)」とは区別して考えた方がよさそうです。これは、むしろ朝敵扱いの蕃族、蛮勇に用いられた言葉のようだからです。 崎元正教さん著『ヤマトタケるに秘められた古代史(けやき出版)』が参照している、京都産業大学名誉教授の金井清一さんの論によれば、「武」の訓みは、古写本では「タケ」であったようで、それが「タケル」として定着したのは本居宣長の門人である伴信友(ばんのぶとも)が提唱して以来のことなのだそうです。 また、同書では國學院大学の名誉教授中村啓信(ひろとし)さんの見解を次のように要約しております。 ――引用:崎元正教さん著『ヤマトタケるに秘められた古代史(けやき出版)』より―― 『古事記』の『倭建』の『建』は、『書紀』では『武』とか『梟帥』と書かれ、その『梟帥』には『タケル』なる訓注があるゆえ、『建』『武』は『タケル』でよいとするのが、伴信友(ばんのぶとも)以降定説のようになっている。しかし、『書紀』は『武』と『梟帥(たける)』の使い方を明確に区別しており、『武』は猛雄(もうゆう)の士にあてられ、『梟帥(たける)』は蕃族(ばんぞく)、朝敵の表現に用いられている。従って尊号として『建』『武』をタケルとする読みは成り立ち得ない。改めて、『武』の読みを明治以前の『書紀』『古事記』の知られる限りの諸写本にあたって確認したところ、すべて『タケ』である。『倭建』『日本武』は『ヤマトタケ』と読むべきである 実は、私はだいぶ前からこの見解を知っておりました。それでも拙稿においてあえて「ヤマトタケル」と表現し続けているのは、単純にこの説がまだ一般的ではないからに他なりません。あえて「ヤマトタケ」と表現し、いちいちそれを補足し続けるわけにもいきません。補足なしに意地でその表現を通すならば、今度は私の脱字ないし無知とも採られかねないので、それを避けてきた次第です。今後も同様の姿勢で臨むつもりです。
しかし、私見としてはこの見解を大いに支持しております。そのことを、この機会にここで書き留めておきます。 さて話を戻しますが、どうやら『日本書紀』におけるカグヤマは、言うなれば呪術道具産地としての絶対的信頼のブランドのようです。仮にマスメディアでもあったならば♪呪術なら〜カグヤマ印のサカキとハニツチ〜♪などとCMソングでも流れてきそうです。 八十万の神々を熱狂させたアメノウズメのストリップショーは天上――高天原――での話ですが、この「神武軍」対「磯城の八十梟帥軍」の舞台は言わずもがな現在の奈良県であります。したがってここでのカグヤマは奈良盆地の大和三山の一つ「天香久山」を指しているものと思われます。あるいは聖なる山としてのカグヤマから大和三山の天香久山が名づけられたのかもしれません。 大和三山とは、「天香久山」の他、「畝傍(うねび)山」、「耳成(みみなし)山」を指すのですが、特に畝傍山は、その麓に、神武天皇や神武から連なる初期の天皇らと、神武の子でありオホ氏の祖とされるカムヤイミミなど錚々たる面々の陵があると『日本書紀』に明記されている霊山です。 耳成山についても、私は神武の子――タギシミミ、カムヤイミミ、カムヌナカワミミ――らの名に付された“ミミ”となんらかの因果があるのでは、などと想像しております。 そこに並び称されるカグヤマには、やはりなんらかの役割が期待されたのでしょうか。その役割とは一体どのようなものであったのでしょうか。いや、並び称されるどころか、三山中唯一「天」が冠されているのがカグヤマであることを考えるならば、筆頭の存在であったことも考えられます。天孫族の雄「神武天皇」の陵墓というこれ以上はないというほどの最高格の属性を有する畝傍山をさしおいて、唯一「天」が冠されているのはどういうことなのでしょうか。カグヤマは「天から降った山」などとも言い伝えられております。 しばし、これら三山の相関関係から、カグヤマの属性の抽出に挑んでみたいと思います。 |
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