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「丸山」地名について意識し始めたところ、格闘技現役時代の仲間であり、かつ私のフィールドワークにおいて、特に苛酷な環境にある調査対象地で“野生”を発揮し、多大なる協力をしてくれている共同研究者H.O.さん――『エースをねらえ!』の主人公ではありません――から連絡がありました。彼はどちらかといえば「被差別部落」に興味を示す人物なのですが、私が鹽竈神社の不思議を追い始めると、何故か興味の接点が生まれました。今にして思えばこれは必然的なことで、極めて大雑把に言うならば、一見両極端に思える被差別部落と最高権力とは似て非なるモノ、つまり180度異なるのではなく360度異なる(?)モノ、両者の立ち位置の唯一の相異とは“時間軸”だけなのかもしれないということです。一言で言い表すならば、「栄枯盛衰」といったところでしょうか。 聖徳太子と蘇我馬子の連合軍に敗れた当時の人臣最高権力者、「物部守屋」に仕えていた人々は、四天王寺――守屋邸宅に建立された寺院――の奴婢(ぬひ)になったといい、その末裔の方々が現在に至っても尚四天王寺の「公人」として奉仕されているといいます。 別に彼らが被差別民云々というわけではありませんが、長い歴史の中ではそのような方々が意地の悪い差別虐待の憂き目にあうことも少なくありませんでした。なまじ本来誇り高い存在であるが故、それを滅ぼした政権にとっては最も目障りな存在になるからです。野党の存在が認められる現在の政治であれば、せいぜい政権中枢から遠ざけられる程度で済むのでしょうが、古代においては一族滅亡同然の命運をたどることになります。 しかしながら彼らには、絶対に彼らにしか出来ない仕事の分野もありました。それは、家長主君の怨霊鎮魂です。怨霊信仰が根強い我が国において、強力な祟り神候補の彼らの霊魂は、やはりその子孫なり近しい関係者に鎮魂させることが最良なのは言うまでも有りません。そのような意味で、現在に至っても御奉仕されている「公人」の存在から、私は、四天王寺は聖徳太子の戦勝御礼ではなく、物部守屋の怨霊鎮魂が目的で建立された寺ではなかったか、などと想像しております。 それはともかく、共同研究者のOさんが私に伝えてきたのは、「真の神武天皇陵は畝傍山の一部の“丸山”である」という安本美典さんの主張でした。 実は、この情報は以前にも彼から教えられていたことです。 しかし、そのときには「丸山」地名に対して特になんのひらめきもなく、ただただ主張に至る一連の顛末について感嘆するのみでした。 もちろん、さすがに彼もその時点では地名そのものにまでは特別な思い入れなどなかった事でしょうが、最近になって私が丸山丸山やらワニワニやらと騒ぐもので、「そう言えば!」、などと思い出したのでしょう。 神武天皇の陵墓像を特定するための根本史料として、正史『日本書紀』に「畝傍山の東北の陵に葬りまつる」とあり、『古事記』に「御陵は畝傍山の北の方の白檮尾のあたりにある」とあります。 また、平安時代前期の『延喜式』には「大和国高市郡にあり、兆域は東西一町、南北二町、守戸は五烟(えん)」とあります。兆域とは、陵とみなされる敷地全体の範囲を指すので、必ずしも墳丘の規模とは一致しませんが、東西約100メートル、南北約200メートルの規模であったということがわかります。 神武を架空の存在であるとする説が現代では多数派でもあるわけですが、見てのとおり『延喜式』には具体的に守戸――管理者――に関する記録があります。したがって、少なくとも、平安初期において神武ははっきりと実在人物扱いであった、ということくらいは認めて欲しいところです。『延喜式』は記紀などの史書と異なり、具体的に法律や人事、財政の決めごとなどの根本基準になる極めて実用的なものです。神武が架空の人物であると考えられていたのであれば、その墓に専属の管理者を置くなど無駄でしかありません。 もちろん、明治期のように国家の強い方針上、神話の信憑性を高めるためにあえてそのような形をとるということは考えられるでしょう。だとするならばその場合、神武と同等以上に重要なはずのニニギら神代三人の陵について、所在地が漠然とし、かつ、管理者については「陵戸なし」となっていることはどういうことなのでしょうか。まことに解せません。したがって私は、この守戸なる墓の番人についての記載は、大変重大な示唆として受け止めるべきと考えます。 ちなみに、『延喜式』は、ナガスネヒコ軍の矢にあたり戦死したとされる、神武の兄、イツセの陵墓「竃山――紀伊国名草郡――」についても記載しております。それが驚くことに、規模については「東西一町、南北二町」と、まるで初代天皇の神武と対等であったのです。 守戸こそ「三烟」で、神武の「五烟」とはやや異なるものの管理者が存在したことは間違いなく、つまりはイツセも実在人物と考えられ、しかも神武――すなわち初代天皇――と対等な位置づけであったことも間違いないでしょう。 前にも触れましたが、『古事記』はイツセの死について天皇にのみ用いられる「崩」で表現しておりました。これらは、「イツセこそが本来の山幸彦系譜継承者ではなかったか」と考える私の力強い論拠となっております。 さて、神武陵丸山説について、「邪馬台国の会」のホームページにある安本美典さんの講演会の記録を参考にしながら紹介致します。 現在「奈良県橿原市大久保字ミサンザイ地内」に治定されている神武天皇陵は、幕末に宇都宮藩が中心となって行った「文久の修陵(1863)」の際に、宇都宮藩の顧問団の検討によって決定されたものとのことです。これが何故宇都宮藩なのかについては私にはわかりませんが、少なくとも幕府からの指示によるものではあるようです。 それ以前には、その「ミサンザイ説」の他、件の「丸山説」、「四条村の福塚説」という、三つの有力候補があったようです。中でも丸山説は江戸時代において最も有力な説であったようです。いえ、むしろそれが本来あたりまえの認識でもあったようなのです。 かつて丸山に隣接していた「洞(ほら)村」の住民は、大正期に陵域拡張のため平野への移転を余儀なくされたものの、言い伝えによれば、どうやら先に触れた「守戸――陵墓の管理者――」の末裔であったようです。菊池山哉(さんさい)さんが著書で触れた、地区の区長宅で多くのお年寄りから聞き取りした内容では、旧家の本家らは、ともに日向からおともしてきた直系の家来であったとも伝えられているようです。その彼らの認識も神武陵は丸山であったようです。 実は、宇都宮藩の顧問団の中にもそれを支持する派が多かったようなのです。しかし、最終的には顧問団筆頭である谷森善臣の主張で、神武陵は半ば強引に現在地のミサンザイに定まったというのです。谷森は、この問題以外では穏当な判断をしていると評される人物のようですし、丸山説の根拠についても十分認識していたと思われるのですが、何故わざわざ定説をくつがえすような結論を出したのでしょうか。 どうやら、そこには学問的正否を超えたところでの判断があったようです。 まず、当時の大まかな事情について、国立歴史民族博物館の春成秀爾さんは『考古学研究』所載の論考『『神武陵』はいつつくられたか』の中で、次のように触れております。 ――引用:「邪馬台国の会」HPより―― 1863年(文久3年)2月に神武陵に決定されたのは、むしろ本命とみられていた丸山ではなく、ミサンザイであった。 その理由こそ時の政治情勢下における洞村との関係にほかならなかった。洞村は1854年当時、120戸からなる被差別部落であった。もともと『神武陵』復興の動き自体尊王攘夷運動の激化する過程で大きくなって行ったもので、文久の修築にかかる頃は、皇女和宮の降嫁に象徴されるように公務合体論が盛んな時であって幕府は朝廷との友好関係を強化することに自らの延命策を見出し、天皇陵の指定と修復の事業を本気で考慮していたのであった。 幕府は、孝明天皇が大和に行幸する計画を知るや、天皇陵の決定・修復事業を実施する決意を固め、戸田越前守から出された建白書をうけいれ、行幸に先立って山陵奉行を急遽設置し、宇都宮藩家老戸田忠至を任命し、谷森善臣をその相談役にしたのであった。ところが、そのわずか1ヶ月のちに、攘夷断行の報告のために孝明天皇の『神武陵』参拝が決定されたために、幕府はいっそう追いつめられることになったのである。 これを受けて、同HPは次のようにまとめております。 ――引用:同HP―― つまり、本命とみられていた丸山説を採らずに、ミサンザイに決定した裏には次のような事情があったのである。 1.丸山が「神武天皇陵」に決定したならば、洞村の人たちは、立ちのきを命ぜられることが必至であると予想された。洞村の人たちにとっては死活問題であった。 2.幕府がわは、時間にさしせまっており、洞村の人たちを、強制移転させる時間的余裕がなかった。 端的に言えば、谷森善臣は、天皇行幸を前にしてトラブルが起きるのを避けるため、洞村の意向をくみ、幕府がわの事情をくんで、学問的判断を曲げて政治的判断を行ったのではないか。 なるほど、極めて現実的で妥当な見解であろうと思います。また、私もこれを支持したいと思います。
それにしても、そのような苦渋の決断で移転を回避された洞村も、結局は大正時代に自主献納という形ながら強制的に移転させられてしまいました。陵域の拡張ということもあるのでしょうが、一説には大正天皇の神武陵参拝を期に、「御陵を見下すのはけしからん」という世論がおこったからともいいます。そもそも、幕府の政治的事情でもって勝手に伝承を曲げられてまで洞村に見下ろされる場所に治定されたはずですが、これでは暴力団の言いがかりにも等しい乱暴な世論です。なんの為に、幕末において千数百年、いえ、ひょっとしたら二千年以上にも及び得る歴史の継承体を無視してまで学問的決断を曲げられてしまったのか・・・、悲劇としか言いようがなく、もはや呆れるしかありません。 いずれ、今触れてきたように、神武陵を守り続けた歴史の継承体である洞村の民に伝わった神武陵の地名は、どうやら“丸山”でありました。そして、ここには丸山古墳なるものもあります。それが神武陵であるのか否かは一慨に断言は出来ませんが、限りなく濃密な関係であったことは間違いないでしょう。 前に触れたとおり、陸奥国多賀城の底地はおそらく「丸山」でした。また、アテルイを輩出したと伝わる照井氏の居城に「丸山館」なるものがありました。そして、真の神武陵の地名は「丸山」であることが濃厚です。丸山が私の想像どおり、元々はワニヤマであったのならば、ここに神と天皇の間をとりもつ職掌「中ツ臣」たる和邇氏が無関係であったとは思えません。 蛇足ながら、江戸時代に竹口英斎が著した『陵墓誌』によれば、親王、皇子、諸王の墓に対する表現に「大墓」なるものがあるとのことでした。 ふと思うにアテルイとモレの降伏と処刑を記録した『日本後紀』に、アテルイはなんと表現されていたか・・・。 「夷大墓公阿弖利為(えみしおおものきみあてりい)」 アテルイは、一説に照井氏の第一党「阿照井」とも言われているわけですが、正史上で「大墓公」と呼ばれております。これがアテルイ個人の職掌なのか、照井という家柄の職掌なのかはわかりませんが、少なくとも照井太郎高直の居城に神武陵と同名の丸山館があることも事実なのです。私には「丸山」がつなぐこれらの諸事項が、全く無因果に存在しているとは思えないのです。 |
ワニの一族
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