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諸説あるにせよ、一般的に阿倍氏はなんらかの形で“越(こし)”と縁が深いとされております。最近でこそ言われなくなりましたが、一昔前まで越エリアを含む本州の「日本海側」は「裏日本」などと呼ばれて差別されておりました。もちろん、それは主要な国際交流の対象が、古来からの中国・朝鮮から欧米諸国に切り代わって以降の錯覚に過ぎず、日本史を通史で眺めるならば、日本海側がそれなりにクライマックス級の舞台になっていたことに気付きます。我が国黎明期の最重要事件「国譲り」を初めとする神話の宝庫「出雲」、王朝交代説まで議論される「継体天皇の出現」、だいぶ下った時代でも歴女のお嬢様方が大好きな戦国時代には、織田信長が上杉謙信に惨敗したり、柴田勝家が羽柴秀吉に歴史的敗北を喫した舞台などもやはり日本海側エリアでありました。このような舞台になっていた事実は、このエリアに歴代有力な人物が誕生もしくは派遣されていたことの傍証であるとも言えるでしょう。江戸期に至っても、徳川政権下最大の外様大名前田藩――加賀百万石――の本拠金沢は言うまでもなく日本海側エリアです。 「加賀」といえば、『越と出雲の夜明け(法令出版)』の宝賀寿男さんは、「加宣国造」を“大国造たる「越国造」”の名残ではないかと推測しておりました。つまり、加宣国造の実態は、越国造が解体再編もしくは相対的に降格された姿ではないかというのです。私は、後世、外様大名最大の前田藩が加賀に配されたのも、一見無関係な事項ながら実は同じ根っこから導かれた結果であると考えております。そのキーワードは「白山信仰」と「一向宗」です。 先年のNHK大河ドラマ『利家とまつ』で生き生きと描かれた「前田利家」が支配する以前、加賀はいかなる領主にもなびかない大きな“信仰エネルギー”に支えられていたかに思えます。もちろん、敬虔な信仰者にとっての神仏は、いかなる法律や俗世の権力よりもすべからく上位にあるのだから当然といえば当然なのですが、当地のそれは、他のエリアとは比較にならないほどの巨大なマグニチュードを内包していたようです。そしてそれは戦国時代に至って噴火することとなりました。当時の金沢市民は、「一向宗」の名の下に集結し、南北朝時代以降200年来の「守護」である「冨樫(とがし)氏――富樫氏――」を追放してしまいました。一向宗――本願寺――の後ろ盾があったとはいえ、喧嘩のプロである守護大名を喧嘩で一般市民が追い払ってしまったのですから驚きです。 その後、金沢は一向宗勢力――本願寺勢力――が実質支配するいわば宗教都市に変貌しました。かつて学校の授業でも「加賀一向一揆」なる単語を丸暗記させられた記憶があり、加賀なる語彙はあたかも一向一揆の枕詞の如く脳細胞に叩き込まれたわけでありますが、それだけこの地は一向一揆勢にとっての一大拠点でもあったのです。言うならば、加賀はそもそも反骨民衆が極めて元気なエリアであったのだろう、というのが私の考えです。 あの織田信長が最も手こずった対抗勢力を一つだけ挙げるならば、それは上杉でも武田でもなく、「一向宗――本願寺勢力――」であっただろう、という私見は前に述べたところでありますが、織田信長を継承した豊臣秀吉の「大坂城」が「石山御坊(いしやまごぼう)――石山本願寺――」なる本願寺勢力の拠点要塞を改造したものであるのと同様、前田利家の「金沢城」も「尾山御坊(おやまごぼう)」なる本願寺の要塞を改造したものでありました。
今「要塞」と表現しましたが、一応はあくまで純然たる宗教施設です。しかし、当時のそういった施設は多かれ少なかれ、必然的に堅固な要塞的防御機能を持ち合わせていたのです。 何故なら、織田信長のマニュフェスト「天下布武(てんかふぶ)」が成る以前の日本は、あの銀閣を建立した足利義政の優柔不断な政治運営や、一貫しない相続者選定と曖昧な政権放棄に端を発し、それに引きずられた室町幕府内部の混乱が原因となって「応仁の乱」が勃発し、それ以降事実上の国家機能の停止状態でした。 ちなみに政治センスは欠落していた義政でしたが、銀閣の完成された庭園と建築物が醸し出す水墨画的な絶妙なモノトーンバランスを見ればわかるとおり、まるで現代の私たちの感性の遺伝子に組み込まれたかような“禅に基づく日本文化”の深化には、極めて大きな貢献をしております。 それはともかく、なにしろ国家機能が停止状態なわけですから、治安維持機能いわば警察機能もままならず、となれば国民も各々がしっかりとした自衛手段を講じていなければ危なくて日常の生活が出来ません。庶民は自ずと強く頼れる大親分の元に身を寄せ始めることになるのです。大親分の素性は千差万別で、いわゆる鎌倉以来の名門の家柄もあれば、他人のトラブルへの介入でのしあがった暴力団まがいの家柄もあったことでしょう。いずれ乱世を闊歩していた大親分は、後に「戦国大名」と呼ばれるのでした。 ヒト・モノ・カネが集まる宗教施設も例外ではありませんでした。いえ、むしろ窃盗集団から見ればよだれが出る程魅力的な“獲物”であったはずで、したがって、宗教団体側も自らの責任においてそれらの攻撃から身を守らなければなりません。だからこそ屈強な僧兵なり神兵なりが存在していたわけです。なまじカネも権威もある仏教勢力の中には、皮肉にも暴力団以上にやっかいな勢力に成長したケースもあり、それが円滑な経済活動の災いになってしまった場合については、後に信長が残虐なまでに容赦なく叩き潰して整理してしまったわけです。いずれ宗教施設が要塞化するのは世情的に必然のことだったのです。 それにしても、何故「加賀」には教科書にも特別に取り上げられるほどの民衆一揆勢力が成長したのでしょうか。もちろん、一向宗という新興宗教――中興宗教(?)――がその結束力に大きく寄与したことは間違いないのですが、それが何故当地において他に例を見ないほどに深く浸透したのかが気になるのです。 |
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永井路子氏も、信長を「魔王」に変えてしまったのは、この10年戦争のせいだ、とおっしゃってますよね。
「信仰」と、片付けてしまえるものなのか想像も出来ません。
その加賀を任された前田利家は随分力量を買われていたと思います。
2011/2/24(木) 午前 0:25
卯喜多さん、ありがとうございます。
永井路子さんの見解は初めて知りました。なるほど、言われてみれば納得出来ますね。一揆勢力の怖さは、どこまでが兵卒でどこまでが一般人なのかの区別がつかないところですよね。そういう敵が相手での戦闘で壊滅させてしまった場合、必ずしも残虐だとは言い切れないかもしれませんね。
前田利家。かつて、伊達政宗基準で戦国史を見てしまっていた私にはどうしても重鎮の爺様のイメージが先行していただけに、大河ドラマでのやんちゃな利家像はなかなか新鮮でした。あのとき、あらためて利家が秀吉や家康といった天下人と対等に渡り合える存在だったんだよなぁと実感しました。
2011/2/24(木) 午前 1:48
前田利家って大したものだったのですね・・・
その後のキリスト教弾圧や明治新政府の神道推奨、GHQの政策にも通じますね。。。なるほど宗教パワーを如何に治めるか・・・
今回もいろいろ勉強になりました(_ _)
2011/2/24(木) 午前 9:56
ロッソさん、ありがとうございます(^0_0^)
大河ドラマ『利家とまつ』では、親友でだった秀吉が成り上がって、その臣下に納まらなくてはならなくなり、昔のような友人としての指摘すらままなくなっていくサラリーマン的苦悩が、実に等身大に感じられましたね。あのドラマではどちらかというと妻の「まつ」が主人公であったので、利家は微妙にダメ夫ぶりも演出させられており、微妙に切なかったのですが、なまじ主人公ならお約束のヒーローキャラよりも、その落ちこぼれぶりが妙に好感がもてました(笑)。ダイワマンやる前でしたが唐沢さんいい味出してましたね。
2011/2/24(木) 午前 10:31
一向宗には信長も手こずったでしょうね。宗教は心の窮地を救うというよき面もありますが、宗教は現世でなく来世=結果が分からないまま、人は死んで行き、永久に答えが出ない。所のことを説き、人の心を掌握しますから、いくら信長が現世を改革しても人々の100%の満足は得られない。正否は別にして結果的に来世で人を集める宗教勢力にはある意味、敵わなかったのでしょうね。
ですから、信長は1582年頃、信長=神格化して、現世・来世の幸福も保証するという思想武装に走ったのでしょうけど。周囲の武将達は信長のこの行動をどの様に感じていたでしょうか。興味のある所ですね。
2011/2/24(木) 午後 6:55 [ - ]
ky・uhさん、ありがとうございます。
なるほど、信長が神になろうとした事にはそういう背景も考えられるのですね。
この信長の「神になる」という発想は、そもそも天皇が現人神であるという思想からヒントを得たように思いますし、少なくとも次世代の秀吉政権、家康政権にも継承されているわけですから――厳密には家康の場合「権現」ですが――今日の批難ほど異端な印象でもなかったような気もしております。そもそも、日本人にはご先祖様を神なり仏なりとして祀る習俗があったので、その延長に過ぎなかったようにも思うのです。当時の神に対する観念は、キリスト教あるいは無宗教を知性とする福沢諭吉の思想に引きずられた現代人の我々とはまるっきり異なっていたものと考えております。
2011/2/25(金) 午前 8:08