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仙台から、阿彦(あひこ・あびこ)と彌彦(やひこ・いやひこ)を因果づける伝承地「魚沼(うおぬま)地方――新潟県――」に向かう場合、自動車ならば東北自動車道、磐越自動車道、北陸自動車道と乗り継いで、関越自動車道に入ります。広大な越後平野を信濃川に沿って遡るようなルートということになります。車窓の風景を見ていると、途中、右手に弥彦山も見えるものの、総じて平坦で、国内随一の「米どころ」を実感致します。微妙に田園が盛り上がってくる地勢を感じたならば、魚沼地方の入口ということになります。「魚沼(うおぬま)と言えば?」と質問したならば、おそらくほとんどの方からかなりの高い確率で「コシヒカリ」という回答が返ってくることでしょう。魚沼――新潟県――はうまい米のブランドとしてあまりに有名です。そもそもうまいコシヒカリの、そのトップブランドがこの魚沼産なわけですが、宮城の「ササニシキ」で育った私としては大変嫉妬するところでもあります。しかし、コシヒカリのうまさはたしかに認めざるを得ません。かつて、コシヒカリとササニシキを食べ比べる機会に恵まれた際、悔しいながらもコシヒカリの方がうまいと感じてしまいました。とにかくあのみずみずしいもっちり感がうまいのです。では日本一の米はコシヒカリ単独優勝で決定か・・・というと、実は米の世界はそんなに甘くはないのです。決して宮城県民のエゴで言っているのではありません。米は日本人の主食です。だからこそ、たいていの場合おかずと一緒に食するということに異論はないでしょう。つまり、米は、あらゆるおかずに対して相性がよくなければならないのです。ササニシキも並んで日本一と称され続けていた所以はそこにあると私は考えます。比べればわかりますが、例えば寿司にした場合に、コシヒカリの卓越したもっちり感は、皮肉にも主張が強すぎるのです。コメ単独で食すならば確かにコシヒカリに分があるかに思えますが、おかずを含めたトータルバランスではササニシキに分があるように思えます。コメにとっては、主演男(女)優賞も重要ながら、日本の主食たるために重要なのは、むしろ助演男(女)優賞なのです。おかずの魅力を最大限に引き出すことが出来るコメ、それがササニシキなのでしょう。 一昔前に深刻なコメ不足がありました。そのとき、タイ米が流通して、これがたいそうまずかった・・・いえ、日本人の口に合わなかったことは、記憶に新しいことと思います。しかし、実はカレーやナシゴレン、チャーハンとしては実に秀逸な食感であったことにお気付きだったでしょうか。それら熱帯性のエスニック料理には、なまじもっちり感のある日本の米よりも、あのパラパラパサパサ感が実によく合うのです。コメには、他の食物とはあきらかに一線を画す価値観が求められるのです。 ササニシキは、残念ながら遺伝子学的(?)にそろそろ時代を終えようとしているとのことで、既に宮城米といえば「ひとめぼれ」というイメージの方が強くなってきております。しかし、この新たな宮城米は、ササニシキというよりもコシヒカリに近い食感となっております。全国の皆様、今のうちに伝説の宮城米「ササニシキ」を満喫しておくことをお勧め致します。 さて、魚沼地方入りした私が目指したのは小千谷(おぢや)市でした。この地は、北関東方面から水を集めてくる魚野川と、信州からの水を集めてくる日本一の信濃川が合流して、それらが山間部から平野部に放出されるエリアでもあり、両東国文化と、河口の日本海側から流入する中央系や大陸系の文化の交わりを管掌できる要衝であったとも思われます。また、信濃川は、かつては阿賀野川と河口付近で合流し、広大な河口を形成していた――『新潟県の歴史(山川出版社)』――といいますので、現在の新潟市あたりは潟湖のような体を成していたのでしょうし、一大貿易港であったとしてもおかしくありません。一方の阿賀野川は、遡れば陸奥国会津方面――福島県――へと連絡しており、その方面との交流も、会津地方に混在する各種古墳文化の中に、北陸系の土器を多数出土するところもある事から裏付けられます。このような地勢をみるに、小千谷市付近を抑えた勢力も、それなりに大きな果実を得られていたのではないかと想像出来ます。そこに鎮座する小千谷魚沼神社は、かつて上弥彦大明神と呼ばれ、『北越雑記』には「弥彦明神当国臨降最初の地なり」とあり、垂仁帝の御代に、当地に入った彌彦が阿彦を討ったのだとされ、それにちなみ、同記においてこの社は「阿彦の霊を祀る社なり」とされておりました。 小千谷市に入り、魚沼神社を参拝した後にざっと地図を眺めてみると、私の目に「船岡山」なる文字が目に入りました。小千谷の市街地の展開からみて、信濃川を見下すこの船岡山を中心に発展していった集落がこの都市の起源ではないかと感じました。合流後、あるいは分岐前の信濃川を通行する船舶を監視するにはもってこいの地勢であり、阿彦がもしこの地に拠点を置いたことがあったのならば、この船岡山こそが相応しいと思いました。 船岡山の麓には、「船岡観音」を本尊とする「慈眼寺(じげんじ)」という寺がありました。 『日本の神々(白水社)』執筆の藤田治雄さんが引用していた『新潟県の歴史――前述同名書とは別――』の井上鋭夫さんによれば、「上弥彦の別当であり、土川村のほとんどを檀家にする慈眼寺(真言宗智山派)の由緒では、薩明(さつみょう)がこの地の地蔵堂にとどまり、池源寺を創立したのがはじまりで、そののち弥彦大明神がやってきて、ここでなくなったので、この明神をまつり、別当池源寺と号したと伝えている」とのことでした。 それにしても、この池源寺で亡くなったのは阿彦ではなく彌彦だとのこと。どうにも阿彦と彌彦が混乱しておりますが、いずれ、別当寺の本尊が船岡観音であることから、「船岡山」が私の直感どおり当地の彌彦――阿彦――の伝説と無関係ではないことがわかります。なにより、この寺が彌彦の人生最終地であったという伝承のあることは無視できません。 何故私が船岡山に注目したのかと言うと、宮城県県南に同名の山があるからです。その周辺には根強い土着の白鳥信仰があり、なんといっても丈部系安倍氏の根拠地でもあるのです。この安倍氏が、いわゆる奥六郡酋長の安倍氏と同系であろうということは度々触れてまいりました。なにしろ、安倍宗任出生譚が伝わる亘理「鳥の海」は、そのエリアを貫く白石川――合流して阿武隈川――の河口なのです。 この船岡山を称するブランドについては、宝賀寿男さんが度々スクナヒコナ裔族の製塩氏族とのなんらかの因果を主張しておりましたが、ふと、平安京の町割りの基準となった風水的な玄武の船岡山――朱雀大路の延長起点――も気になるところです。 それはともかく、阿彦伝承地のシンボルたるべき山と、安倍宗任出生譚がある河口のすぐ上流にある安倍氏エリアの山が同名であることは事実です。このことは、陸奥安倍氏が自らの祖と仰ぐ「安日(あび)――長髄彦の兄――」のモデルは「阿彦」ではなかったか、と考える私の試論に説得力を増してくれるものと信じております。 |
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