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先日、半強制参加で自由度がほぼ皆無の団体旅行――それが悪いというわけではなく気まぐれな私的歴史探索が不可能という意味――があり、福島県会津地方のとある温泉に行ってまいりました。最終日、宿泊施設のチェックアウトまでのわずかな時間、土産品売り場で赤ベコを買う(cow?)一方で、『会津の歴史伝説 とっておきの23話 (歴史春秋社:小島一男さん著)』という本を見つけ、手にとって眺めてみておりました。すると、これがなかなか興味深く、ついつい衝動買いをしました。そして、それだけにとどまらず、この本は再び私を会津の地に出向かせてしまうことになるのでした。 とはいえ、そもそも私は会津地方、とりわけ「会津若松」という都市がたまらなく好きで、山形県庄内地方同様、実は毎年2〜3回は訪れているのです。 会津周辺の歴史は、東北地方には珍しく幅広い時代においてそれなりに日本史級です。四道将軍オオビコとタケヌナカワワケの再会伝説しかり、伝教大師最澄を論破した高僧徳一しかり、蘆名(あしな)氏対伊達氏の奥州ダービー決勝戦しかり、伊達政宗対蒲生氏郷の心理戦しかり、上杉景勝の徳川家康挑発しかり、戊辰戦争と白虎隊しかり・・・。 こう見えて私もそれなりに忙しい身なのでなかなか宿泊するまでには至らないのですが、夕闇せまる黄昏時に哀愁漂うこの城下町を散策しようものなら、そのまま古(いにしえ)の暖簾をくぐりぬけ、旨い会津の地酒に酔いどれて、未だ随所に残る古都の風情に今宵を通り過ぎてしまいたい、という衝動にかられます。 「会津若松」と言うと、一般的には幕末の会津藩、すなわち、松平容保(まつだいらかたもり)や戊辰戦争、白虎隊といったイメージが強いのですが、それもさることながら、私は伊達政宗のライバル「蒲生氏郷(がもううじさと)」の再開発した都市としてただならぬ魅力を感じております。そもそも“若松”という地名も、伊勢松坂から領地替えされた“松”好きの氏郷が名づけたものです。 氏郷は率先垂範の武闘派であると同時に、行政手腕にも卓越しておりました。元々近江に生まれた氏郷ですので、伊勢商人ばかりか近江商人とのコネクションも浅からぬものがあったようで、楽市楽座を導入するなどして会津若松を商都として昇華させ、後世にまで残る遺産のようなソフトの部分での礎も築いております。ライバルの伊達政宗同様、あと少し早く生まれていれば天下人になったかもしれないとさえ言われております。たしかに、あの織田信長に器量を買われて娘――冬姫――を嫁にもらったくらいですから、その才覚については想像するに難くありません。信長血統の女性を異常に欲していた羽柴秀吉は、それをどのような思いで眺めていたのでしょうか。氏郷は、生まれるのが遅すぎただけではなく、死ぬのもまた早すぎました。彼が惜しまれながらも若くしてこの世を去った原因には、秀吉に毒を盛られたからだという俗説もまことしやかにささやかれております。その才覚が危険視されていたということもさることながら、求められて信長の娘と結ばれた氏郷に対する秀吉の湿り気のある感情も、少なからず世間から邪推されていたからなのでしょう。 先日、久しぶりに氏郷の霊廟を訪れてみたのですが、司馬遼太郎さんが「姿がよい」と評価していた墓標たる五輪の塔の手前すぐ傍に、それとほぼ同等の大きさの七層の天守閣オブジェが添えられておりました。10年ほど前に「レオ氏郷南蛮館」で見た安土城さながらの漆黒天守閣の摸型をそのまま石像にしたかのようなオブジェは、やや歴女のお嬢様ウケを狙ったかのような下心は感じたものの、地味な氏郷の偉大な底力も伝わってきたので、結果オーライと受け止めました。 ところで、本来書きたかったことからだいぶ離れてしまいました。どうも会津の魅力が私を狂わせてしまうようです。私が今回触れたかったのは、会津若松市の東端猪苗代湖に接する「経澤(へざわ)」という村落に伝わる太子信仰と物部守屋の娘の話です。かといってせっかくここまで蒲生氏郷について語った原稿を消すのももったいないので、このまま一つの記事として残しておくことにします。 |
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