はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

全体表示

[ リスト ]

富山の地名由来を追う

 ぼちぼち越中を離れようと思いますが――勢い余って能登や加賀にも踏み込みましたが――、締めくくりに「富山(とやま)」の地名をきっかけに、頭をかけめぐっていることに触れておきたいと思います。私とお付き合いの長い方は、早い段階でお察しになられていたかもしれませんが、ここには「富(とみ)」の一文字が含まれております。そうです、“トビの一族”を探求し続けてきた私が、このまま通り過ぎるわけはないのです。
 さしあたり、ほんの少し調べたたけで「富」の文字がかなり新しい時代にあてはめられたものだと気付きます。何故なら、史料などを眺めれば、近世以前のトヤマが「外山」と表記されていたことを知るからです。
 『富山県の歴史(山川出版社)』によれば、「外山(とやま)」の初見は、応永五(1398)年五月の「外山郷地頭職(とやまごうじとうしき)」の寄進状――富山県郷土博物館蔵――であるのだそうで、どうやら富山のあった地域は、元来「外山郷」といわれた土地であったようです。それは、「佐々成政(さっさなりまさ)」による統治時代――天正九(1580)年〜天正十三(1585)年――の末においてもなんら変わりなかったようです。
 成政は、織田信長の対上杉氏牽制の最前線として越中に分封されて以降、柴田勝家、羽柴秀吉、徳川家康など、戦国時代の有力派閥の間を、自らの熱き信念に基づいてめまぐるしく渡り歩いたダークホース的剛腕戦国大名のイメージでしたが、ウィキペディアにある個人研究的要素の強い書き込みの限りでは、富山時代にはわずか数年の統治にもかかわらず氾濫河川への治水などで善政を尽くし、領民から慕われる一面も見せていたようです。富山における成政は、最終的に天正十三年八月、一説に十万とも言われる秀吉軍に包囲され、降伏しました。これを「富山の役」といいます。“役(えき)”ということは、成政あるいは富山が、外国扱いということなのでしょうか。
 それはともかく、天正十三(1585)年閏八月の太閤朱印状――「富山の役」の陣立てを記したものか?――においても、トヤマはやはり「外山」と記載されているようです。
 『富山県の歴史(山川出版社)』によれば、『越中旧事紀』『富山領古城記』などには、成政以降の富山城下は「外山郷」の「藤井村」に建設された都市であり、核となる城郭は、後に「普泉寺(ふせんじ)」と改称されることとなる「富山寺」の土地に建設されたもので、それに因んで城下もまた「富山」と呼ばれるようになった旨が記されているようです。
 『富山県の歴史(山川出版社)』は、「外山の地に所在したために、外の字を佳名の富と改めて寺名にした寺院の名が、富山の地名となったのである。そして、廃藩置県後の紆余曲折ののちの明治一六(一八八三)年に、現在の富山県域を管轄として成立したこの県は、県庁を富山の地においたために、富山を県名とすることになった」とまとめております。
 ということは、富山の「富」の字、すなわち「トミ」は、単に佳名としての当て字にすぎないから、私が推測する「トビ」とは関係無いのでしょうか。
 ところが、そうとも限りません。何故なら、「外山」と表記して「トビ」と読ませている事例が奈良盆地南東部に実在している――奈良県桜井市外山(とび)――からです。しかも当地は、事もあろうか金鵄伝承も残り「鵄邑(とびむら)――紀が記す長髄彦の本拠地――の有力候補の一つでもあるのです。
 鵄邑の候補地としては、奈良盆地北西部の生駒山東麓エリアもかなり有力です。少なくとも、長髄彦が神武天皇を緒戦で撃退したエリアが生駒山の西麓であることはほぼ間違いありません。国土地理院の地図を眺めておりますと、「長髄彦本遽」や「鳥見白庭山」の標柱が立つ生駒市白庭台の東方にも「外山」と表記された標高100メートル強の丘陵地が見えます。これをなんと読むのか正確なところは確認出来ておりませんが、付近に「登美ヶ丘(とみがおか)」という住宅地が広範に展開しておりますので、やはりトミかトビと読むのが自然であろうと考えます。
 なにしろ、私はかつて「トビの一族」の稿を起こすにあたって、実際にこれらの両候補地を訪れております。逆に言えば、その認識があったればこそ、越の凶賊阿彦の伝承を色濃く残す県名・市名の旧字が「外山」であったことに、ただならぬ好奇心を覚えたのです。
 三輪山の南麓にあたる奈良県桜井市外山(とび)の周辺一帯は、先に触れたように『日本書紀』が長髄彦の本拠地とする「鵄邑(とびむら)」の盆地南部の有力候補でもありますが、神武天皇東遷の聖蹟や金鵄伝承などを伝える「等彌(とみ)神社」や、延喜式名神大社の「宗像神社」などが鎮座しております。
イメージ 1
等彌神社の境内案内図

 当地の宗像神社は案外古い歴史を持つようで、境内の「宗像神社御造営趣意書」によれば天武天皇の皇子「高市皇子」によって祀られたのだそうです。ところが、そのわりに宗像の神は明治二十一年以前においては本殿中央には配されてなかったとのことですから、趣意書に記載のある春日神か若宮が中央であったのでしょうか。どうにも気になるところです。機会があれば掘り下げて考えてみたいと思います。いずれ、この社が「外山区の氏神様」とされているところは留意しておくべきと捉えております。
イメージ 2
イメージ 3

 ちなみに、この外山区の西側一帯には、阿倍氏の祖を祀る「高屋阿倍社」などの鎮座する安倍氏の本拠地が隣接しております。この安倍氏は、あくまで四道将軍「大彦命」なり「武淳川別命」の裔孫であって、系譜上長髄彦との関係はなんら謳っていません。識者に創作と言われる長髄彦の兄「安日(あび)」に血脈をつなげて憚らないのは、あくまで奥州安倍氏でありました。しかし、私は、この両者は実際には同族であろう、とたびたび掲げてきております。鵄邑の有力候補地に、安倍氏の本拠地が隣接していることは、はたして偶然なのでしょうか。
 また、奥州安倍氏が祖と掲げる「安日」にその名が酷似し、私がそのモデルであったのだろうと想像している「阿彦」の伝承中心地が、鵄邑候補地「外山(とび)」と同じ表記の「外山(とやま)」であったことも、はたして偶然なのでしょうか。
イメージ 4
   富山のトビはたくましいようです。

 富山の地名発祥地は、先に触れたとおり、外山郷の「藤井村」であったとのことでした。大若子命が、阿彦の妖術にさんざん翻弄されて攻めあぐねていた際に現れた越中姉倉比賣神は、どのような神託を下したのかご記憶でしょうか。姉倉比賣は、身の汚れを濯ぐのに適した「神の清浄な水」として、四つの候補を挙げておりました。それは、藤井、華井、桃井、櫻井、の水でした。姉倉比賣神は、その中でも最も優れているのが「藤井」の水であるとしておりました。そして、この水で炊飯をすれば飢えて苦しむこともなくなる、とのことでした。外山郷の藤井村をこれに関係していると決めつけるのは拙速であるとは思いますが、無視出来るほど無意味にも思えません。「藤井」という言霊にはさらに深い意味を勘繰る事ができるからです。しかしそれについてはもう少し整理して、あらためて触れたいと思います。

.

ブログバナー

検索 検索
今野政明
今野政明
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
最大10万円分旅行クーポンが当たる!
≪10月31日まで≫今すぐ応募!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事