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『広辞苑(岩波書店)』を引くと、「荘園(しょうえん)」について次のようにあります。 ――引用―― 【荘園・庄園】�平安時代より室町時代にかけての貴族・寺社の私的な領有地。奈良時代に墾田などを起源として出現したが、平安時代には地方豪族の寄進による立荘が盛んとなり、全国的に拡大、不輸不入権も認められるに至った。鎌倉幕府の守護地頭制によって漸次武家に侵略され、南北朝の動乱以後、急速に衰退に向かい、豊臣秀吉の時、太閤検地によって最終的に廃止された。荘。 〜以下省略〜 補足すると、「奈良時代に墾田などを起源として出現した」ものは、「墾田地系荘園」、平安時代以降「地方豪族の寄進による立荘が盛んとなり、全国的に拡大、不輸不入権も認められるに至った」ものは、「寄進地系荘園」と表現され、区別されます。 これを、土地制度論の立場では、前者を「初期荘園」、後者についてはさらに分類され、官物などを免除された田を「免田系荘園」、領域型荘園を「寄進型荘園」あるいは「寄進地系荘園」などと表現されるようです――『日本史広辞典(山川出版社)』参照――。 特に注目すべきなのは、後者の「免田系荘園」や「寄進地系荘園」の類です。これらが初期の墾田地系荘園と根本的に違うのは、「不輸の権」すなわち“課税対象外”であったということです。 結論から言えば、このような“免税地”が増大しすぎてしまったがため、税収が激減し、首都も荒廃し、また、戸籍や計帳によって国民を把握する方法も頓挫し、平安時代末期には国家の体が破綻しかけていたのです。 少し噛み砕いてこれらの成立の経緯などを眺めていきます。 大和朝廷のはじまりは連合国家の体であったと思われるわけですが、連合国家ということはいくつかのクニの集合体ということです。その中で中心的存在となっていくクニを仮に「ヤマト」としておきますが――それが卑弥呼(ひみこ)の邪馬台国(やまたいこく)か否かはさておき――、そのヤマトを含め、各々のクニには、各々の王がおりました。 ヤマト連合国家の成立以前、その連合国家の盟主として君臨していたのは「大国主神」率いる「出雲(いずも)」であったと思われます。今でも私たちは10月を「神無月(かんなづき)」と呼びますが、それは、すべての神が出雲に出向くため諸国が留守になることに因んでいるのは有名な話です。そして、それに伴い出雲地方だけは10月を「神有月(かみありづき)」と呼ぶ、ということも、併せてよく知られた話です。神々が出雲に集まるのは、善男善女からの切実な縁結び祈願に対して協議し決裁をするためなどとも聞いたことがありますが、協議内容はともかく、これは、神代における出雲神族を盟主とした同盟国サミットの名残なのでしょう。 さて、その盟主の座をヤマトが継承しました。これを正史では「国譲り」と呼んでおります。しかし、『日本書紀』などを見る限り、ヤマトの使者であるタケミカヅチが剣を突き立てて大国主に国を譲るか否かを迫っての継承劇なので、その実は革命ないし侵略なのでしょう。 いずれ、出雲から国を譲られたヤマトでは、その王家であっただろう「天照大神」の孫「瓊瓊杵(ににぎ)尊」の子孫が代々「大王(おおきみ)――天皇――」となり、新たに大和朝廷の体が形成されていくことになります。したがって、当初の大和朝廷の傘下のクニには各々の領土と政権があったはずです。しかし祟神天皇や雄略天皇などの剛腕天皇の活躍などで大和朝廷の求心力が強まり、その権限はヤマトに集約されていきます。さらに諸国に朝廷直轄の「屯倉(みやけ)――稲米の貯蔵倉――」を普及させ、より直接的な物納税収の効率を図った「蘇我氏」の台頭などにより、中央集権化が促進されました。「仏教推進派」対「神道護持派」の宗教戦争と言われる「蘇我」対「物部」の抗争――祟仏戦争――は、その実「中央集権推進派」対「地方分権護持派」であったと私は考えているのですが、なにしろ蘇我氏の勝利と台頭によって、半独立していた有力氏族たちは著しく権勢を剥奪されていきました。蘇我氏はさぞや恨まれたことでしょう。 さて、その蘇我氏も滅ぼされました。義務教育で暗記させられた645年の「大化の改新」という革命は、天皇を軽んじ君臣の秩序をないがしろにしていた暴虐の蘇我氏を滅ぼして成立したというものですが、天下国家の求心力を高めた蘇我氏が、私利私欲ばかりで君臣の秩序をないがしろにしていたとも思えませんし、「改新」とは言うものの、「中大兄皇子――天智天皇――」や「中臣鎌足――藤原鎌足――」が蘇我氏の布いた政策を大きく改革していたようにも思えないので、それこそ私利私欲のために蘇我氏の立場と功績を簒奪しただけの事変であったと理解しておくべきでしょう。 とにかく「公地公民」の色合いは「大化の改新」を経ていよいよ強まりました。諸説あるものの、おおまかな流れとして、「国土も国民も大和朝廷の直轄財産である」という概念が強まっていったのです。そこでそれを前提にした「班田収受(はんでんしゅうじゅ)の法」も確立することになります。これは、国家の民に一定の基準で公地――口分田(くぶんでん)――を授け、それを耕作させて国家が直接税収を得るというものです。尚、この農地の所有権はあくまで国に帰属するので、耕作者が死亡すれば当然に国に返還されます。 しかし、法が浸透するほどに対象人口も増え続け、口分田用地の需要も増します。となると、既に開墾された農地の面積には物理的な限りがあり、開墾を奨励する必要性が生じてきます。 そこで、時の太政官のトップであった長屋王によって実施されたのが「三世一身(さんぜいっしん)の法」――養老七(723)年――です。 これは、新たな灌漑用水路を切り開いて開墾した者は、本人・子・孫の三代に限って個人所有を認める、というものです。これによって、一生懸命開墾すれば可愛い子や孫にまで安寧に土地を継承できるので、俄然意欲も湧いてくるだろうと目論まれたのでした。 ところが、この法はわずか20年の運用で欠陥があると判断されました。 『続日本紀』に記録された聖武天皇の詔(みことのり)によれば、せっかく開墾した土地も、三代の期限が満了して国家からの口分田の形に戻った後、農夫が怠けて投げやりになって荒れてしまう、ということなのです。 そこで聖武天皇は“期限”を撤廃し、永遠に所有出来るように法を改めました。それが「墾田永年私財(こんでんえいねんしざい)の法」――天平十五(743)年――です。 ちなみに『逆説の日本史(小学館)』の井沢元彦さんは、この聖武天皇の詔をいぶかしんでおります。開墾者の孫の代が死んだ後の世代の怠惰が、前法施行後わずか20年しか経ていない段階で社会問題化していたとはとうてい考えにくいからです。それ故に井沢さんは、これを“「永代所有」を認める法律を通すための「言いわけ」”と推断しておりました。 井沢さんは聖武天皇を藤原氏出身の光明皇后の尻に敷かれたロボット天皇と捉えており、この詔にもその背後にいる黒幕の意図が反映されていると考えるのが常識であるとしております。黒幕とは「藤原氏の勢力拡張を第一に考えていた光明皇后と、その腹心である藤原仲麻呂」とのことです。聖武天皇がそこまで軟弱であったかといえば、私は必ずしもそう思わないのですが、それでも井沢さんの説は核をついていると思っております。確かに、たったの20年では多くの農夫はまだ孫の世代にすらなっていなかったことでしょうし、また、仲麻呂の時代に始まったもう一つの制度「公廨稲(くげとう)」などは実にえげつない公然の税収横領制度です。後に藤原氏がフル活用するエキスがこれらの政策にたっぷり詰まっているのです。この公廨稲について、井沢さんは次のように説明しております。 ――引用:井沢元彦さん著『逆説の日本史(小学館)』より―― これはどういう制度かといえば、簡単に言えば不作等の理由で納めるべき年貢に不足が生じないよう、あらかじめ年貢の一部を積み立てておき不足をそこから充当するというものである。 こう言うと、いかにも結構な制度のようだが、これには大きなウラがある。まずその積み立て分の年貢に対する比率が大き過ぎるのである。しかも、ここが肝心だが、もしその積み立て分が余ればそれは国司・郡司らの収入になるのである。 つまり、ここにおいて国家の税収を、役人が堂々と懐に入れる制度が出来てしまったということだ。 この公廨稲と永年私財法が結局「公地公民」を基盤とした律令制を崩壊させることになる。 ふと、江戸期に仙台藩祖伊達政宗が実施した「買米制度」を思い出しました。ただしそれは、年貢米徴収後の余剰米を江戸への流通用に藩が“前金”で強制的に買い付けする制度であり、基本的には逆の発想です。しかも収穫の不安定に悩む農民からも歓迎されていたもののようなので、同列に論じては“おらが殿様”に失礼過ぎますでしょうか・・・。 それはともかく、免税地ではない初期荘園であっても既にこのような理不尽な搾取が行われていたことがわかります。それを知らずともそもそも構造的に懸念すべき部分がありました。なにしろ自力で水路を切り開くなどの大規模土木工事を伴う開墾作業は、一般農民が容易に成し得るものではないからです。それを出来るのは、結局は十分な資本力で大量の人工(にんく)を動員できる大寺院や貴族に限られてくるということになります。大寺院とはやはり東大寺や興福寺で、貴族とは言うまでもなく藤原氏ということになりましょうか。 しかし、この流れを問題視して具体的に行動した英傑がおりました。称徳天皇です。彼女は二度目の即位後ほどなくして開墾に対する禁令を勅し、同時に仲麻呂を名指しで批難するのです。
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