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称徳天皇は、年号を改めた天平神護元(765)年三月五日に次のようなことを勅しております。 ――引用:宇治谷孟さん全現代語訳『続日本紀(講談社)』より―― 三月五日、天皇は次のように勅した。 今聞くところによると、墾田は天平十五年の格(きゃく:墾田永年私財の法)によって任意に開墾者の私有財産とし、三世一身法で定められた三代までという所有の期限を区切ることなく、みな永久に収公されないことになった。このため天下の人々は競って田を開発するようになり、勢力のある人々の間では、人々を追いたてるように開墾に使役し、貧しく困窮している人々は自活する暇もない程である。そこで今後は一切開墾を禁止し、これ以上墾田の開発をさせてはならない。ただし寺院がすでに土地を占定して開墾を進めているものはこの限りでない。また、その土地の人民が一ないし二町を開墾するのはこれを許す。 〜中略〜 また、次のように詔した(宣命体) 天下の政治は天皇の勅によって行われるものであるのに、人々が自分の欲するままに、皇太子をえらび立てようと思って、功を求め望むべきではない。 そもそも、この皇太子の位は、天が定めおかれ、お授けになるものである。それ故に朕も、天地が明らかに霊妙な徴候をもって、皇太子の位をお授けになる人が出現するものと思っている。それまで今しばらくの間は明るく清らかな心をもって、人に誘われたり、人を誘ったりすることなく、それぞれがしっかりした明るく清らかな心をもって仕え奉れと仰せられることばをみな承れと申しつげる。 ある人は淡路におられる人(淳仁廃帝)を連れてきて、再び帝として立て、天下を治めさせたいと思っている人もあるらしい。けれどもその人は天地が良いと認めて位をお授けになった人ではない。どうしてそれが分るかというと、志が愚かで心根が善くなく、天下を治める器量が足りない。それのみか悪逆な仲末呂(仲麻呂)と心を同じくして、朝廷を動揺させ傾けようと謀った人物だからである。どうしてこの人をまた立てようなどと思おうか。今後はこのようなことを思い謀ることをやめよ、と仰せられる天皇のお言葉をみな承れと申しつげる。 長々と引用しましたが、藤原仲麻呂の傀儡であった淳仁天皇を廃帝に追いこんでまで天皇に返り咲いた称徳天皇が、「墾田永年私財の法」と「藤原仲麻呂――恵美押勝――」についてどのように考えていたのかがよく表れております。 それにしても、この称徳天皇の詔勅を目にして思うのは、彼女は中国的な儒教の思想の持ち主であるということです。つまり、皇太子――次代の天皇――は天皇家の血統云々ではなく、天が器量のある人物を選ぶ、と考えていたことがわかります。このとき彼女の頭に既に「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)」という具体的な人物像があっただろうことは否めないにしても、思想の根本にこの儒教的精神があってこその着想であり、宇佐八幡神託事件も起こるべくして起こったと言えるでしょう。 何よりこの称徳天皇の詔勅によって、彼女がなんのために天皇の座に返り咲いたのかがはっきりとわかります。それは、荘園拡大の問題点と隣り合わせにある藤原仲麻呂の野望を粉砕するためであったのでしょう。そればかりか、道鏡を天皇に迎え入れることによって、自分に流れる天孫族と藤原氏の血統、並びにその血脈だけが天皇になれるという不文律のルールにも終止符を打とうとしていたのでしょう。 しかし、彼女は志半ばにして病によって崩御します。いえ、崩御前後の周辺環境の不自然さからして、おそらく暗殺であったのでしょう。 そして、彼女の強権によって芽をつぶされた過剰な荘園拡大でしたが、『続日本紀』は、宝亀三(772)年四月七日の道鏡死去報告の半年後となる十月十四日の条に、次のようなことを記録しております。 ――引用:宇治谷孟さん全現代語訳『続日本紀(講談社)』より―― 十月十四日、これより先、天平宝字五年三月十日の格では、特別に諸国の郡司の少領以上の嫡子は、官司に出仕することを許すとあり、また天平神護元年には、すでに開墾した田地を除く他は、新たに国の田を開墾することを禁断した。しかし、ここに至って、此の制度を共に廃止した(墾田永年私財法を復活させた)。 つまり、称徳天皇の崩御、並びに道鏡の死去の報告を待って、「墾田永年私財の法」すなわち“荘園拡大の道”が復活されたのです。何故復活されたのかの釈明も特にありません。おそらく藤原氏や大寺院の圧力であったのでしょう |
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