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『続日本後紀』における承和九(842)年の神階奉授第一号である「大高山神社」は、猛禽類の「鷹」と無縁ではないと考えられます。そのあたりは、既に過去の拙記事でとりあげておりますので、一部を再掲して確認しておきたいと思います。 ――再掲:拙記事『かつて鷹信仰だったお宮』―― さて、宮城県南部には白鳥信仰を象徴するような神社として苅田嶺神社がありましたが、秘かに鷹信仰を象徴すると思われる神社もございます。実はヤマトタケルの神話の際に触れた柴田郡大河原町の「大高山(おおたかやま)神社」がそうなのです。それは、刈田嶺神社がある刈田郡の隣、「柴田(しばた)郡」にあります。この神社は、柴田郡唯一の延喜式神名帳記載の神社、すなわち「式内社」であり、最高格付けの「名神大」社でもあります。 現在ではこの神社も白鳥信仰の神社と化しておりますが、以前の鎮座地の地名が「尾鷹」であり、鷹を彷彿とさせます。 また、同じ柴田郡の船岡字内小路にある白鳥神社の由緒『宮城縣神社名鑑(宮城縣神社庁)』によれば、この神社は大高山神社の分霊を勧請したものとのことで、俗に大高宮、白鳥明神と呼ばれているそうで、名鑑はその記述の中で“大高山神社(大鷹神社)”とご丁寧に“鷹”の字でも表現して記載しております。 また、谷川健一さんも指摘しておりますが、正応六年(1293)の銘がある東北最古の鰐口(国重要文化財)には「大鷹宮」とあり、当時は鷹を祀る神社であった可能性が高いと思われます。 この大高山神社は、承和九年(842)に従五位下の神階を授けられた段階では苅田嶺神社よりも格式が高かったのですが、白鳥の怪異に伴う苅田嶺神社の異常な昇進によって逆転されてしまいます。もし、大高山神社がもともと白鳥信仰の大社として知れ渡っていたのであれば、逆転されることもなかったのではないかと思われますので、やはりかつては“鷹信仰”の神社であったのだろうと私は思うのです。 というわけで、現在でこそ白鳥信仰を全面に出している大高山神社も、「高(たか)」の言葉から推察出来るとおり、本来は「鷹」信仰の社であったようなのです。少なくとも、谷川健一さんが白鳥信仰の総本山的に位置づけた「刈田嶺神」が、承和十一(844)年に従五位下で並び、同十五(849)年に正五位下に昇叙した――大高山神を追い越した――段階においては、まだ大高山神は白鳥の神ではなかったと考えられます。 ちなみに、この承和十一(844)年の刈田嶺神と同じ日、元祖鹽竈神を自称する宮城郡の「鼻節(はなぶし)神」も従五位下を授け奉っております。関連して、これらの奉授を前にして、『続日本後紀』には大変気になる記事があります。承和十一(844)年八月五日、つまり刈田嶺神と鼻節神に従五位下が授け奉られた八月十七日の約二週間前、藤原良房の指示を受けた「文章博士従五位上春澄宿禰義縄(はるすみのすくねよしただ)」「大内記従五位下菅原朝臣是善」らが次のように申し出、それが受け入れられているのです。 ――引用:森田悌さん全現代語訳『続日本後紀(講談社)』より―― 先帝嵯峨太上天皇の遺戒に「世間では、物怪が出現するたびに亡者の霊の祟りだとしているが、はなはだ謂れのないことである」とありますが、今、物怪の出現のままに役所に卜(うらな)わせてみますと、亡者の祟りである、と明瞭に出ています。私たちが卜いの結果を信じれば、遺戒の旨に背き、依らなければ現状に対する戒めである祟りを忍ばねばなりません。進退ここに窮まり、どうしたらよいか判りかねます。あるいは遺戒は後の者が改めるべきでしょうか。私たちは検討を行い、改めるべきか否かについて、古典の文章を引用して、典拠したいと思います。 〜中略〜 これらに拠り、考えてみますに、卜筮の告げるところは信じるべきであり、君父の命令は適宜取捨すべきものでして、これより、改めるべきは改めることに、なんら疑問はありません。 朝廷の見解は、これに従うことになった。 繰り返しておきますが、この申し出は藤原良房の指示に基づいております。すなわちこの内容は良房の意向であると考えてよいでしょう。これによって、狡猾な良房は先君の遺戒に囚われない前例をつくることに成功したことになります。しかしその一方で、私はここに祟りに怯える良房の姿も見るのです。つまり良房はここに出てくる“亡者”について思い当たる節があり、恐怖心に苛まれていたのでしょう。刈田嶺神と鼻節神はその直後真っ先に従五位下を奉授していているのです。これら陸奥国の両神の神階奉授が、良房の恐怖心となんらかの因果があると私が捉える所以です。 四年後の承和十五(849)年五月十三日、刈田嶺神はさらに昇叙して正五位下になるわけですが、その二週間前、五月一日に日食があり、その五日後の五月六日に「淳和太政天皇」の第五皇子「良貞親王」が急死し、その翌日五月七日、「仁明天皇」が病となっております。そして、刈田嶺神昇叙の二日後、五月十五日、淳和太政天皇の娘「祟子(たかこ)内親王」も死去しております。 「承和の変」は、「恒貞親王」を廃太子して、すなわち「桓武天皇」そして「嵯峨太政天皇」の遺訓を受けて正統な「淳和太政天皇系譜」を失脚させることによって、「仁明天皇」の子「道康親王」を「立太子」させることが目的でした。従って、淳和第五皇子「良貞親王」の“急死”にもなにやら胡散臭さを感じます。一旦そう考えてしまうと、「祟子内親王」の死までが疑わしいものに思えてきます。もちろん、淳和の子であっても第四皇子の「基貞親王」のように、「承和の変」以降に厚く遇された人物もおりますが、それはにわかに神階を昇叙された神々同様、“祟る亡者”に対する免罪符に利用されていたようにも見えます。なにしろ、承和七(840)年に淳和が五十五歳で崩御してからわずか八年、生きていればまだ還暦を過ぎた程度の淳和の第五皇子や皇女が、一体どれだけ歳をとっていたと言うのでしょう。とても寿命を迎えていたとは思えません。 いずれ、このようにじわじわと淳和縁の人物が消滅し、それに呼応するかのように刈田嶺神が昇叙しているのです。主犯格の仁明天皇の病もその顛末へのストレスと無縁ではないでしょう。そして翌月六月十三日、ついに年号が「承和」から「嘉祥」に改められるのでした。 想像するに、承和九年に神階を授け奉られた神々は、「承和の変」に関連して「祟るであろう」想定の下に「予めなだめられた神々」であったのでしょう。そして、それらに遅れて承和十一年に神階を授け奉られた神々は、「想定外であったが実際に祟りを為し、あらためて考えればそれがしかるべきであった神々」であったのではないでしょうか。 『宮城縣神社名鑑(宮城県神社庁)』は、「大高山神社」について次のように注記しております。 ――引用―― 承和九年の昇叙は本社だけでその理由が明らかでない。貞観十一年の場合は、この地方に大震災の起った年で、この事に関係あるか。又、安積郡の名神大社宇奈已呂和気神と同時昇叙で、その理由を伝えない。この宇奈已呂和気は、景行天皇の皇子におわす。 ここに、「貞観十一年の場合は、この地方に大震災の起った年で、この事に関係あるか」とあります。私もずっとそう考えていたのですが、あらためて『三代実録』を眺めてみるに、昇叙記事は三月十二日、大震災は五月二十六日ですので、どうもそれ以外に理由を求めた方がよさそうです。それはいずれ後の機会に触れたいと思います。
それよりも今は、「承和九年の昇叙は本社だけでその理由が明らかでない」の部分です。 おそらく、当初の想定では少なくとも“猛禽類に関係する氏族”――それが忌部氏や大伴氏と関係あるか否かに関わらず――をなだめておく必要があったことはほぼ間違いないでしょう。「大高山神」はもちろん、先に触れた阿波国忌部氏の祖神「天日鷲命――富大明神――」などもその類と言えます。 しかし、その後の“亡者の祟り”や数多の天災によって、それだけでは足らなかったことを痛感したのでしょう。その最たるものが「白鳥」であったことは、推して知るべし、です。このあたり、白鳥神「刈田嶺神」の異常昇叙と、「大高山神」の“白鳥神化”が全てを物語っておりますが、あえて他の事例を付け加えるなら、大高山神と同じ承和九(842)年に神階奉授記事がある和泉国の「大鳥神」が顕著かもしれません。 承和九(842)年神階奉授の神々の中で、正五位下の「安房大神」に次ぐ従五位上を授け奉られ、大高山神を含めた従五位下で横並びの神々から頭ひとつぬけていた「大鳥神」――大鳥大社――は、現在全国の「鷲神社」の総本社とされております。大鳥とは、ツルやコウノトリのような広義での白鳥のことで、鷲は言うまでもなく猛禽類です。しかし何故か現在の鷲神社では白鳥神を祀っているのです。このあたり現在の「大高山神社」と同じです。 蛇足ながら、名鑑が引き合いに出す「宇奈已呂和気(うなころわけ)神」は、現在「瀬織津姫神」を前面に出しておりますが、昭和五十一年発行の名鑑は「景行天皇の皇子におわす」としております。これはおそらくヤマトタケルの示唆でしょう。ヤマトタケルは白鳥信仰の代名詞でもあります。 『三代実録』をみると、大高山神は貞観十一(869)年に「従五位上」に昇叙しておりますが、「宇奈已呂和気(うなころわけ)神」は、同じ日に「正五位下」とその上を行っております。 『続日本後紀』に戻って確認すると、宇奈已呂和気神は、承和十四(847)年に「従五位下」を授かっておりますが、大高山神はそれよりも五年早い承和九(842)年には既に「従五位下」を授かっております。大高山神は神階の上で宇奈已呂和気神に先行していたものの、貞観十一(869)年に至ってはっきり逆転されたということになります。 つまり、ここでも白鳥神と鷹神の逆転劇がみられることになります。白鳥神がヤマトタケルを通じて神八井耳命系譜を指すのか、天穂日命系譜を指すのか、あるいは尾張氏なのか、孝元天皇系譜を指すのか、はたまた谷川健一さんが力説するように物部氏を指すのか、結論めいたことは言えません。ただ、承和年間から貞観年間にかけて、宮中における怪異にもっともふさわしい事変は、やはり「承和の変」であり、「応天門の変」であったことは間違いありません。 |
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