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忌部(いんべ)氏によって編まれた『古語拾遺(こごしゅうい)』――。 その成立がいつなのか、最も古い写本――嘉禄本:嘉禄元(1225)年二月二十三日卜部兼直書写――の巻尾の日付ですら既に混乱があります。「大同元(806)年二月十三日」なのか「大同二(807)年二月十三日」なのか、あるいはそのいずれでもないのかが判然としません。 とは言ったものの、実は少なくとも大同元年でないことだけは明確に推断出来るのです。 それは、編者「斎部広成(いんべのひろなり)」の所感に「方今、聖運初啓」「宝暦維新」とあるからです。これは、「平城天皇の即位」と「大同への改元」への賛辞です。 『日本後紀』は、平城天皇の即位に伴う「大同」への改元を“五月辛巳日”――五月十八日――と記しているので、同年の「二月十三日」はまだ改元前の「延暦二十五年」であり、もっと言うと、先帝桓武天皇崩御――三月十七日――よりも前なのです。したがって、仮に西暦806年二月十三日に『古語拾遺』が仕上がっていたとするならば、広成は同書上で「平城天皇の即位」や「大同への改元」を賛辞出来た筈がないのです。このことから、少なくとも「大同元(806)年二月十三日」の校了はあり得ないと断言できるのです。 『日本後紀』は、大同元(806)年八月十日のこととして、中臣氏と忌部氏が各々宮廷祭祀における自らの正統性を主張しあった訴訟と、それに対する裁断の勅について触れております。ここにおいて、中臣氏の陰に埋没していた忌部氏は神代以来の由緒ある「幣帛使」として平城天皇から堂々と認められました。これは忌部氏の勝訴と言ってもいいものです。 今触れたように大同元年説が成り立たないとすれば、他に写本上具体的日付が明記されているのは大同二(807)年二月十三日だけですから、これが正しいと考えてほぼ間違いないでしょう。つまり忌部氏に有利な勅裁が下った半年後ということになります。序文に「幸蒙召問、欲攄蓄憤」と明記されているように、斎部広成は平城天皇の召問を受け、これ幸いと蓄積された憤りをぶつけんばかりに『古語拾遺』を編纂したことになります。 こういった感情が露骨に表現されているためか、斯界一般的に、『古語拾遺』は忌部氏の「愁訴状」とみており、私もそれを長く支持してきました。しかし、よくよく考えると、『古語拾遺(岩波書店)』校注の西宮一民さんが指摘するように、「愁訴状」と位置づけるにはその顛末に不自然な部分があります。何故なら、既に忌部氏は先の訴訟でさしあたり有利な判決を得ており、それまでの斜陽一辺倒から一転してその権威を認められているからです。100%の満足ではなかったのかもしれませんが、このように有利に事が運んだにもかかわらず、尚も鬱憤晴らしの書によって“愁訴”するということは、勅裁への不満、ひいては天皇への侮辱とも判断されかねません。したがって、これを単に「愁訴状」とみることは不自然であり、私もあらためてそれに便乗するところなのです。 では、何故『古語拾遺』は編まれたのか、また、何故桓武天皇崩御と前後するこの時期に、中臣氏や忌部氏が自らの正統性を主張し合っていたのか。 その答えを探る鍵が、今触れたばかりの一節に含まれております。 「幸蒙召問」 そうです、斎部広成は、「平城天皇の召問」を受けたから『古語拾遺』を編纂したのです。とすれば、その「召問」は平城天皇のどのような趣旨に基づいたものだったのかが気になります。実はこれも『古語拾遺』の中でさらりと触れられております。 「若当此造式之年」 すなわちこの年は、後の「弘仁式」や「延喜式」のような、「式」――律令の施行細則――が作成される年であったようなのです。 先の西宮一民さんは、徳田浄さんの『古語拾遺に就いて(国学院雑誌三三の一:原始国文学考所収:目黒書店)』を参照して、「造式」のための「召問」であるに違いないとした上で、次のように推測しております。 ――引用:『古語拾遺(岩波書店)』―― 平城天皇がそれぞれ専門の氏族や部署の代表者に「造式」の意図をお漏らしになったのを、斎部広成はわがことの幸いとして受止め、祭祀の式典の根源的な事柄を記そうとし、翌大同二年二月十三日に本書は成ったとすると、時間的に言っても自然な考えとなる。 なるほど、全く異論はありません。
大同四(809)年、平城天皇は病弱を理由に在位わずか三年で弟――神野親王:嵯峨天皇――に皇位を譲り、翌年弘仁元(810)年には 「薬子の変」で失脚したので、「造式」には至らなかったようですが、結局、彼を失脚させた弟の嵯峨天皇が弘仁十一(820)年に「弘仁式」を制定しております。 実は、藤原四家の相克をあれこれ考えているうちに、私はこの平城天皇の「造式」の意志も「薬子の変」発端の一因だったのではないか、と疑い始めております。正史上、平城天皇――上皇――は藤原式家の薬子(くすこ)との情愛に溺れ、彼女にそそのかされて平城京への遷都を決行し、身を破滅したことになっておりますが、なにしろ先帝である上皇が、正規軍を率いた今上天皇に討伐されるという前代未聞の大政変です。これを魔性の女にたぶらかされた上皇のご乱心といった週刊誌もどきのスキャンダルのみに原因を求めてよいものでしょうか。これまでも度々触れたように、私はそもそもその定説に違和感を抱いているのです。 平城天皇は何故中臣氏の主張を退けてまで忌部氏を宮廷祭祀上に復権させたのでしょうか。それは「承和の変」があった承和九(842)年における猛禽類を祀る社や忌部氏が奉斎する社の神階昇叙にも何某かの因果があるのではないでしょうか。 なにしろ、「承和の変」「応天門の変」を経て絶対的権勢を確立する「藤原北家」の台頭は、嵯峨天皇の命令系統を一手に引き受けた蔵人頭、北家「藤原冬嗣」の活躍、すなわち式家を逆転した「薬子の変」から始まっているのです。 |
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