|
平安遷都に関して、一般的(?)な「鳴くよ(794)ウグイス平安京」よりも、私が中学校で覚えさせられた「泣くよ(794)坊さん平安京」の方が“完成度が高い”ことについてはかつても触れたと記憶しております。この遷都の持つ意味は、“奈良勢力との決別”であり、その奈良勢力の最たるものは、「藤原南家」であり、「南都六宗」でありました。したがって、たしかにこの遷都で“坊さんは泣いた”のです。 しかし、桓武崩御と共に、彼らにも復活のチャンスが訪れました。その救世主がおそらく平城上皇であったのでしょうが、それを嵯峨天皇が上皇諸共に叩きつぶしたようです。 比叡山延暦寺を任された新鋭の僧「最澄」の存在は、桓武の意を受けて躍進した典型的な例とも言えるでしょう。唐に渡って最先端の仏法を極め、「論」と化しつつあった「南都六宗」や、既得権の巣窟と化した「僧綱(そうごう)」を否定することが、彼のひとつの役割でもありました。もちろん、彼自身に政争のつもりはなく、おそらく彼自身の仏法における“正義”が、結果的に桓武の意を汲む形になっていたのでしょう。 そのような最澄の正義を象徴するかの“ある改革”が、延暦寺において施行され、それが徐々にスタンダードなものとなっていった例があります。 それは“俗別当”です。 「俗別当」とは、その言葉どおり、俗人すなわち出家していない者が担う別当――寺院統括責任者――のことです。 これについて岡野浩二さんの論考『延暦寺俗別当と天台座主』から補足しておきます。 ――引用―― 〜最澄は『顕戒論』において僧綱の存在自体を否定し、唐では功徳使が仏事を掌っていることをあげており、俗別当はその功徳使に倣うものと考えられる。 この主張は僧綱の反対にあい容易には実現されなかったが、弘仁十三年六月、最澄の没後に藤原冬嗣・良峯安世・藤原三守・大伴国道らによってあらためて嵯峨天皇に奏上され、ようやく允許されるところとなった。 ついでに、ウィキペディアには次のようにあります。 ――引用―― 最澄が弘仁9年(818年)に朝廷に献上した『山家学生式』の中に盗賊や戒律違反を防ぐため、延暦寺に公卿の俗別当の設置を求め、5年後の弘仁14年3月3日(823年4月17日)に藤原三守と大伴国道が延暦寺の俗別当に任ぜられた。承和6年(739年:ママ)には東寺にも設置され、以後東大寺・興福寺・法隆寺・金剛峯寺・西大寺などに公卿の俗別当が設置された。時代が下ると、地域の有力者が地元の寺院の俗別当を務める事例も登場した。 ここにある承和6年(739年)は誤りです。単なるタイプミスでしょうが、承和六年は西暦“839年”です。 また、「俗別当がいつ採用されたのか」を読みとる際、岡野さんの論考に弘仁十三年六月云々、ウィキペディアに弘仁十四年云々とあり、このままでは混乱するので、少し整理しておきます。 岡野さんの弘仁十三年六月云々は、あくまでそのすぐ後の「最澄の没」にかかる日付です。最澄は弘仁十三年六月四日に没しております。したがって、俗別当が具体的に実現されたのは、ウィキペディアが記す「弘仁十四年」と考えていいでしょう。 弘仁十四(823)年といえば、四月十六日に嵯峨天皇が皇太弟「大伴親王――淳和天皇――」に譲位しております。なにか、嵯峨帝の政策のギアが一段階上がった感があります。 その年の十月十日に、「東寺」は嵯峨帝――厳密には大上皇か――によって空海に下賜されたわけですが、俗別当に切り替わった延暦寺とはまるで対照的です。 おそらく嵯峨帝は、僧綱を否定する俗別当の理念には賛成だったはずです。だからこそ、今上天皇としての治世を締めくくるように最澄の言上を受け入れたのでしょう。もしかしたら、それを最澄の遺言と受け止めた故に実現させたのかもしれません。いずれ少なからず嵯峨の理念には合致していたものと想像します。 にもかかわらず、何故俗人ではない空海をこの時期に東寺の別当に据えたのでしょうか。私は次のように推察します。 まず、最澄は死の前日――弘仁十三年六月三日――、次のような言上をして許可されております。 ――引用:森田悌さん全現代語訳『日本後記(講談社)』―― 仏陀が定めた僧呂の守るべき戒律は一様ではなく、衆生が菩提心を起こすに至る契機にも大乗と小乗の違いがあります。伏して、天台法華宗に割り当てられている年分度者二人(大同元年正月卯条)は、比叡山において毎年春三月の桓武天皇の国忌の日(三月十七日)に、天台の菩薩戒により得度受戒させ、十二年間比叡山を出ることを許さず四種三昧(常坐・常行・半行半坐・非行非坐の四種三昧からなる)を行い修行させるようにしたいと思います。これにより、大乗戒が定着して永く日本国に伝わり僧呂が山林で修行して遥かのちの世まで弘まるようにしたいと思います。 上言が許可された。 この時点ではまだ最澄の望む「俗別当」の制度は、僧綱の反対によって受け入れられておりません。したがって、私はこれを最澄の“あてつけ”とみております。 最澄は翌日に亡くなりましたので、嵯峨の心にも何か苦いものが残ったのではないでしょうか。だからこそ、この後ほどなくして延暦寺における「俗別当」の人事が実現したのだと思います。 そもそも、最澄が何故それを主張したのかといえば、他でもない僧にあるまじき行いや「戒律違反」を戒めるためで、もっと言えば、南都六宗の僧綱に対する責めの意味を含んでいたのでしょう。だからこそ死の間際にありながら、相変わらず自分の主張を受け入れない宮廷権力に対し、まるであてつけのように、あえて自分の分身とも言える延暦寺への“戒”の厳格化を言上したのではないでしょうか。 嵯峨はそれを受け入れました。 ただ嵯峨は、「俗別当」の目的が「戒律違反への戒め」であるならば、空海に限っては“まるであてはまらない”と考えたのではないでしょうか。その思いを表現するパフォーマンスとして、あえて空海を東寺の別当に据えたのではないでしょうか。 ところで、延暦寺の俗別当として、「藤原三守」と「大伴国道」の名が挙がっておりました。この大伴国道、実は、延暦四(785)年の「藤原種継暗殺事件」の際に主犯格にされた大伴継人の子で、この父親の有罪判決に縁座して延暦二十四(805)年までの実に20年もの長きにわたって佐渡に流されていたのです。 しかし、国道の才覚は類稀なレベルであったようで、配流中にもかかわらず佐渡の国守から国務の相談を受け、その判断までも仰がれていたようです。 やがて死の間際の桓武が、連座していた者らの罪について生死を問わず許し、元の地位に復させたので、弘仁年間には既に何事もなかったようにその才覚を発揮していたようです。 『延暦寺建立縁起』によれば、彼は、最澄が死の前日にまで言上するほど渇望していた「大乗戒壇」設立の動きにおいて、最も中心的な役割を果たしていたようです。『伴善男(吉川弘文館)』の著者佐伯有清さんは、「最澄の教義を十分に理解し、最澄に生前親しく接していなくては、そのような行為は、とうてい考えられないだろう」としておりますが、なるほどそう思います。 このように、おそらくは生前の最澄の良き理解者でもあっただろう国道は、一方で平安京の東西両寺の講堂建設にも関わっており、『東寺講堂図録』は「東西寺検校」として彼の名を記しております。おそらくこの時の東寺との縁によって、国道は空海とも親交が深まったと考えられます。あの空海が並々ならぬ感情をこの国道に寄せていたことは、彼が国道に送った書状によって知られております。 ちなみに、後に「応天門の変」で失脚する「伴善男」は、この国道の五男であるとされております。 |
全体表示
[ リスト ]


