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嵯峨天皇が自分の子をまとめて臣籍降下させて、“源氏”を創設した背景には、先に触れたような藤原四家らへの対策云々以前に、そもそもの切実な事情として財政問題があったようです。
嵯峨は多数の妻妾を娶り、実に五十人もの子に恵まれたわけですが、当然ながらそれらは全て“親王”であり、親王である以上、皇族として国家予算の中で遇さなければなりません。嵯峨はそこに手を打ったのです。なにしろ、大事業連発の桓武政権以来、国家の財政は疲弊しておりました。懸命な策であったと言えるでしょう。 この方針は、嵯峨から半ば強引に皇位を譲られた次代の淳和天皇の政策にも引き継がれたようです。もちろん、淳和の御代は、淳和の崩御まで全期間を通じてその背後には嵯峨が上皇として君臨しておりましたので、嵯峨政権の範疇と捉えるべきなのかもしれませんが・・・。 具体例としては、天長三(826)年九月、上総国・常陸国・上野国の「守(かみ)――国司――」に親王を任ずる制が始まりました。この3国がしばしば「親王任国」と表現される所以です。 これは、形式化していた親王の八省卿任官をやめ、そのかわり彼らを国司に任官し、国司の俸料である「公廨稲(くがいとう)」の配分にあずかれるよう配慮した制度であろう、というのが一般的な説ですが、おそらくそのとおりだと思います。 だとすれば、これは行政機関の仕分けの煽りを避けられない親王への“経済的援助”のために編み出された制度ということになりますから、根っこは源氏の創設と同じということになります。この制度は当初の予定では淳和帝一代限定のものでありましたが、その後150年にわたって継続されたようです。 さしあたり制度開始時には、嵯峨や淳和の兄弟、すなわち桓武の三人の皇子が任ぜられております。具体的には、仲野親王が上総太守、賀陽(かや)親王が常陸太守、葛井(ふじい)親王が上野太守、ということのようです。 ちなみに、その前年――天長二(825)年――、彼らの一つ下の世代となる桓武の孫「高棟(たかむね)王」が「平姓」を与えられております。つまり、ここに「桓武平氏」が誕生したのです。 この平氏第一号の高棟王の系譜は“公家”として繁栄していくことになります。 一方、これより半世紀以上遅れて平姓を賜り、いわゆる“武家平氏”の祖となる「高望(たかもち)王」は、第一号の高棟王の兄弟「高見王」の子です。言うまでもなく、後に「新皇」と称し坂東武士の魂を揺さぶった「将門(まさかど)」も、更には、太政大臣まで登りつめ摂関家を凌駕してしまう「清盛」も、この「高望王」の系譜から輩出されることになります。 日本史に大変革をもたらすこととなる彼らの活躍は、この嵯峨・淳和の時代に種が蒔かれたと言えそうです。ある意味で荘園制度とも競合、あるいは共存する親王任国のはじまりは、特に坂東において“武士”という特殊な階層を成長させることにもなりました。まさに、荘園の功罪ここにあり、なのです。 上総国・常陸国・上野国の各々の太守となった三人の親王は、太守とは言え、あくまで遥任(ようにん)ですので、特に直接現地に赴いて地方の行政を司るというわけではありません。彼らは、京にいながらその果実だけを堪能するのです。 したがって、親王任国三国における実質の長は、次席にあたる「介(すけ)」になります。そして、その下の「掾(じょう)」、さらに下の「目(さかん)」などが主に実務を担っていたのです。 ところが、本来公地を守るべき彼らは、なまじ京でうだつがあがらなかったばかりに、おしなべて赴任地での開拓に専念し、少しでも私財を増やそうとする傾向にありました。なにしろ、墾田永年私財法の影響で、開墾すれば全て永遠に自分の土地――荘園――になるわけですから貪欲です。彼らは、せっかく手に入れたそれらの権益を手放したくないばかりに、任期満了の後も京に帰ることなく現地に土着する傾向にありました。 そうなれば、当然同じことを目論みながら赴任してくる後任の官人との間に摩擦は避けられません。このような社会構造は、約100年の後に前述の「平将門」のような怪物を生むことになります。そのあたりは後にあらためて触れたいと思います。 |
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