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承和七(840)年、兄である嵯峨太政天皇に先んじて淳和太政天皇が崩じ、承和九(842)年、後を追うように嵯峨も没すると、宮中の誰しもが懸念していたであろう政変が起りました。
いわゆる「承和の変」です。 この変についてはこれまでも事あるごとに触れておりますが、あらためて概略を述べると、淳和の子で皇太子である「恒貞親王」が謀反の企てをしたとして失脚させられた事件です。政変の最大の目的は、「仁明天皇」の第一親王である「道康親王」を立太子させることだったと考えられております。事実、政変後しっかりと道康親王が立太子を果たし、後の文徳天皇となっております。 政変の黒幕は、道康親王の祖母、すなわち仁明天皇の母、すなわち嵯峨太政天皇の后――太皇太后――である「橘嘉智子」であろうと言われております。しかし、プロデュースしたのはおそらく藤原北家の「藤原良房」でしょう。 それには異論もあります。このとき、同じ北家で良房よりも上席にあたる大納言「藤原愛発(あらち)」にまで罪状が及んでいるので、さすがの良房でもそこまで仕組むのは不可能であったのではないか、したがって良房を中心人物とするには無理があるのではないか、という論です。それを言うなら藤原氏が皇太子を失脚させるということ自体がそもそも常識的に無理な話です。つまり、その論の支持者は、仁明天皇あるいは嘉智子以外に成し得ない芸当であった、と言うわけです。 言わんとすることはわかるのですが、それでも前にも述べたように、私はやはり良房が中心人物であったと考えております。その無理を実現するために、未亡人となって限りなく絶対権力者に近い太皇太后嘉智子の煩悩を巻き込んだのでしょう。すべからく藤原氏は自らの手を汚さず天皇の権威を利用して裏工作するのが得意です。このような謀略は、藤原不比等以来のお家芸でしょう。 おそらく良房は、孫を溺愛する嘉智子の本能につけ入り、恒貞親王とその周辺のままならない政敵の排斥を謀ったものと考えられます。 道康親王の母、すなわち仁明天皇の皇后「順子(じゅんし)」は、良房の妹でした。良房にすれば、藤原氏として久々に、北家としては初めて天皇の外戚として君臨するチャンスであったのです。事実良房は、この道康親王すなわち「文徳天皇」に自分の娘「明子(あきらけいこ:めいし)」を娶らせ、その第四皇子である「惟仁親王――清和天皇――」を生後八カ月という異例の幼さで立太子させるなど、極めて露骨にその方針を断行していきます。 その後は延々と皇后が北家良房の子孫に独占されていきます。念のために補足しておくと、系図によっては良房ではなく、良房の兄である「藤原長良(ながら)」の三男「基経(もとつね)」の子孫が天皇外戚としての地位を独占しており、良房系譜は早々に途絶えているように見えます。それにはカラクリがあります。実は、良房は嫡子に恵まれず、兄長良の三男「基経(もとつね)」を養子にしているのです。つまり、生物的な血統としては確かに長良の子である基経ですが、あくまで“良房の系譜”として、天皇外戚の地位を独占していったのです。 この顛末を鑑みれば、「承和の変」が良房にとって大変都合の良い政変であったことは疑う余地もありません。 「かような時、父嵯峨太政天皇ならばいかに対応されたのであろうか・・・」 多少なりとも犯行に手を染めただろう仁明天皇は何度もそう考えたことでしょう。今後の政治的なことはもちろん、この事変はかつての「早良親王」のような強力な怨霊を生みかねません。 おそらくはその対策なのでしょう、この政変の年、鎮魂にふさわしい神々を次々昇叙させました。そこに、何故富大明神の裔「忌部(いんべ)氏」がかかわる神々、猛禽類の神々、諏訪(すわ)や彌彦(やひこ)の神々がリストアップされていたのか、それらの因果については今後更に熟考すべきと考えておりますが、もしかしたら大同年間に中臣氏に勝訴して念願の復活を果たした忌部氏は、このタイミングで再び宮廷祭祀から追放されたのかもしれません。それにしても、忌部氏とは一体何者なのでしょうか・・・。 それはともかく、怨霊に対する不安は嘉智子や良房にも少なからず襲いかかっていたでしょう。いえ、良房はあきらかに怯えておりました。 それは承和十一(844)年嵯峨の遺戒を覆してまで“卜(うらな)いを信ずべき”方向性を復活させたことからもわかります。 なにしろ、本来ならばそれをなんとかしてくれるはずの頼れる最澄や空海は、もう既にこの世にいないのです。 そこに、“あの男”が現れました。 承和十四(847)年九月、今は亡き最澄のコンプレックスであった密教を会得して、最澄の秘蔵っ子「円仁」が唐から帰ってきたのです。 |
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円仁さん…大師の称号。。。。
東北の慈覚大師の足跡が、奇異です。
脳みそ足りないんで、これからもご教示ください。
貴兄の記事にはいつも刺激があります。。ありがとうございます。。m(__)m
2012/9/22(土) 午前 1:06
おんちゃんさん、まさに私が欲するところの記事評価のお言葉、ありがとうございます。アゴの下を撫でられた猫のごとく悦に浸っております。
慈覚大師の足跡・・・。
入定窟の奇妙な遺骨や延暦寺のスペアを受け持つ「不断の法灯」の存在から山寺のみは信用しておりますが、他はほとんどが後世の台密僧の足跡なのでしょうね。
2012/9/22(土) 午前 8:32
忌部氏は古墳に埋葬する鏡も作っていたらしいですね。
関係ありませんが、仙台の一番町の端っこの鏡屋さんとは飲み仲間だったりします。
あすは久しぶりに邪馬台国の会へ行ってみよう!
2012/9/22(土) 午後 11:20 [ ロビンソン ]
ロビンソンさん、ありがとうございます。
忌部氏は主に祭祀具の製造や神殿・宮殿の造営に従事してきたと言われておりますね。夥しい祭祀具が発掘された橿原の曾我遺跡は、付近に天太玉神社があり、忌部氏とのなんらかの関係を推定できます。古墳時代中期から後期前半にかけての玉造り部の工房跡とも見られております。
古語拾遺によれば忌部の職掌は多種にわたるらしく、各地に分散しているものを大和の忌部が統括していたとのことです。ということはもしかしたらハイブリッドな氏族の総称なのかもしれませんね。
照井氏の痕跡が濃厚な宮城県の玉造郡ももしかしたら無関係ではないかもしれませんね。
追伸:青春時代、その鏡屋さんで自分ががに股であることに気付きました。
2012/9/23(日) 午前 6:39