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宝亀十一(780)年三月、朝廷を震撼させた「伊治公砦麻呂(いじのきみのあざまろ)の反乱」が勃発しました。これは、「伊治(いじ)城――宮城県栗原市――」を本拠とする上治(かみじ)郡の大領「伊治公砦麻呂」が、時の陸奥守兼按察使(あぜち)「紀広純(きのひろすみ)」と、牡鹿(おじか)郡の大領「道嶋大楯(みちしまのおおだて)」を殺害し、その勢いで“遠の朝廷(とおのみかど)”たる「多賀城」にまで攻撃を加え、これを炎上させるという前代未聞の謀反劇でありました。
ここに出てくる人名や城柵名の「伊治」は、栗原を流れる迫川の古名「イジ川」の「イジ」と同義とされております。付近にある「伊豆沼」も含め、このあたりが広く「伊治」ないし「伊豆」と呼ばれていたことがわかります。 「栗原(くりはら)」の地名由来についてウィキペディアを参考にするならば、現在の主流は、史料に残る「上治(かみじ)郡」を出土木簡に見える「此治(ひじ)郡」の誤記と捉え、「此治(ひじ)」は「伊治(いじ)」と同音異字であるとし、それと同時に「これはる」や「これはり」とも読めることから、それが「くりはら」に変化したとするもののようです。 ただ、実はその木簡については私の管見になく、つまり「此治郡」なる「郡」の存在を示唆する根拠については未確認であり、四の五の言える立場でもないのですが、「此治城」という「城」の存在の示唆であれば、そう記載されている漆紙文書が多賀城跡から確かに出土しております。その写真は『多賀城市史』でも確認でき、「此治」と表記された出土品が物的に存在すること自体は間違いなさそうです。 いずれ、主流の「伊治(いじ)=此治(これはり)=栗原(くりはら)」の定説に対し、かつて私は大和岩雄さんの影響を多分に受けて異なる見解を唱えておきました。私は、「栗原の語源は呉原である」と考えております。 奈良県明日香村にも「栗原」という地名があり、『日本書紀』によれば、これはもともと「呉原」であり、「呉人」を住まわせたことに由来するものでした。私はその記述を重視するのです。この「呉」ないし「栗」は「高麗」を指すわけですが、私は、天武天皇十四(685)年の浅間山の噴火によって信濃の高句麗系牧場が壊滅した際、路頭に迷った多くの高句麗系騎馬民が陸奥の栗原の地に逃げ移ったのではないか、と想像しております。 つまり、私の想像があたっているならば、栗原の地名は七世紀に遡る可能性もあるわけで、とすれば、八世紀に築かれた「伊治城・此治(これはり)城」よりも前の話であり、「此治(これはり)」の訓から「栗原(くりはら)」地名が生まれたとする論はだいぶ苦しくなります。 そこで私は次のように考えました。「伊豆」あるいは「伊治」という城柵の名を、全国に数多ある伊豆と区別するために元々あった「栗原」の地名を冠し、「栗原の伊豆」ないし「栗原の伊治」などと呼んでいるうちに、「伊治」と表示するだけで「くりはら」と読むようになっていったのではないか、と・・・。例えるなら、「鶴ヶ城」や「青葉城」という文字を見ただけで「会津若松城」や「仙台城」と自動的に脳内変換してしまうのと同じ理屈です。 それを拙ブログにて記事化した後、ふと、あることを神経衰弱ゲームのごとく思い出しました。その結果、ここにきて「此治」を定説のごとく「これはり」と訓読みすることにも懐疑的になってきました。私は、「此治(ひじ)」がある種の神性を有する言霊であったことを思い出したのです。 その言霊とは、丹後国――京都府北部の丹後半島エリア――の「比治(ひじ)の眞名井(まない)」のことです。 「比治(ひじ)の眞名井(まない)」は、度会氏による『等由気大神宮儀式帳』や『神道五部書』にとどまらず、『摂津国風土記――逸文――』においても伊勢外宮豊受大神との関連が取り沙汰される比類なき聖地です。なにしろ、その眞名井を奥宮に祀る丹後一宮「籠(この)神社――吉左宮(よさのみや)――」は、『延喜式』の名神大社で、かつ「元伊勢」と呼ばれております。 また、それとは別に、論社は未確定ながら、「比沼眞奈為(ひぬのまない)神社」という式内社もあります。 「京丹後市立図書館」を訪れた際、同館の荒木さんの資料ファイルを見せていただいたのですが、そこに引用された『五箇村誌草稿』の記述によれば、式内「比沼眞奈為(ひぬのまない)神社」について、論社鎮座地の村同士が訴訟にまで発展する熾烈な紛争があったようです。草稿編纂当時においてはその議論の決着をみていないようですが、元伊勢ともなればさすがにお互いおいそれとは譲れないところではあるでしょう。 それはともかく、「比“沼”(ひぬ)」は「比“治”(ひじ)」のこととされております。単に写本過程で「治」を「沼」と誤写したものとみるのが妥当と思いますが、仮に誤写にしても、相当早い段階での誤写と思われます。何故なら、『丹後国風土記――逸文――』に、比治の里の比治山の頂に眞名井があったが今は“沼”になった、といった旨の記述が残っているからです。これはよほど古くから「沼」の言霊と因果があった証であり、無碍にも出来ません。 度会氏関連史料上の「比治の眞名井(ひじのまない)――諸本により比沼之魚井(ひぬのまない)――」は、原則として止由気大神――豊受大神――の故郷のように描写されておりますが、『摂津国風土記』――逸文――には、摂津稲倉山の山中にいて飯を盛ったトヨウカノメ神がなんらかの事情があってやむを得ず丹波国の「比遅の麻奈韋(ひぢのまない)」に遷られた旨が記されております。なにやら落ち延びた感のある穏やかならぬ記述です。 かつて、『ホツマツタヱ』に注目して、池田満さんや鳥居礼さんによる関連書籍を収集し、読みあさっていた時期があったのですが、『ホツマツタヱ』では、「イザナミ」の父であり、皇祖神「アマテル」の祖父であり師匠でもある「ヒタカミ国」の王「タカミムスビ」の五代目「トヨケ」が、自らの死に場所として「アメノマナヰ」すなわち丹後の「比治の眞名井」を選んでおりました。トヨケは生きながらにしてマナヰの山腹の洞に入ったともいい、トヨケの死後、アマテルは、悲しみにくれながらも尊敬するトヨケの選んだこの地に滞在し、「天橋立」の独特の地型が織りなす流れの速い潮の干満を目にし、“天地の法則”を悟ったとされております。また、後にアマテル自らも同地を死に場所に選んでおります。 『摂津国風土記』に比べればあまり暗さはないものの、杓子定規に言いかえれば、高皇産霊(たかみむすび)・豊受(とようけ)・天照(あまてらす)といった錚々たる神々の「死」について語っていることには違いありません。「比治の眞名井」という言霊には、多かれ少なかれそういう“重さ”が含まれていると見ておくべきでしょう。 さて、「比治(ひじ)」については次のような意味があるようです。 『丹後国風土記――逸文――』によると、「比治の里」は「土形(ひじかた)――田畑――の里」に由来するようで、先の京丹後市立図書館の荒木さんがまとめた資料集にも「泥(ひじ)」の意である旨が散見し、その語感からも「土師(はじ)・埴(はに)」を示唆する言霊のようです。 先の元伊勢「籠(この)神社――吉左宮(よさのみや)――」の奥宮「眞名井神社」は、一説にこれこそが式内「比沼眞名井神社」であるとも言われており、その真偽のほどはわかりませんが、この鎮座の山を「比沼ノ眞名井」、或いは「藤岡山」、又は「天香語山」というらしいので、ふと、大和盆地における「香久山(かぐやま)」の“土”の呪術性を思いだします。『日本書紀』によれば、神武の東征に際して、「磯城邑」や「高尾張邑」にいる幾多の梟帥をスムーズに倒すための呪術に、カグヤマの土が用いられておりました。比治が土師に関連するならば、マナイの水、カグヤマの土、いずれも神性の高い水と土で泥をこねてつくられた土器は、さぞや神威があることでしょう。 一方で、やはり比沼眞奈為神社の論社の一つにあげられる「藤社(ふじこそ)神社」の「藤」も「比治」と同義とされております。「比沼ノ眞名井」に関連して「天香語山」と並び称される「藤岡山」にも、見てのとおり「藤」が含まれております。どうやら、これもそもそも「天之眞名井」に縁深い言霊でもあるようです。 『神道五部書』などによれば、「天之眞名井」なる神の井は「日向高千穂」から「丹波」、「伊勢」へと変遷したらしいのですが、どうもこの井の遷った地は全て「藤岡」と称されているようです。このことは藤社神社を式内比沼眞名井神社であると主張する側の補強要素にもなっております。 前に触れましたが、阿彦討伐に苦戦していた大若子命が、越中の地主神「姉倉姫神」の神託を得て大巳貴命の秘策を授かった際、その禊祓いに最も有効な水は、「藤井」の水でした。 『喚起泉達録』は「古へ冨山ヲ藤岡山トモ藤野トモ藤井村トモ三名アリ藤岡山藤井ハ時一度ニアリシ名ナリコレハ藤岡山ノ藤井ナリ」とした上で、「天上ヨリ日向ノ國」、「其後丹後ノ真名井ノ原」、そして「今ハ伊勢外宮ノ未申ノ方藤岡山にウツシテ」と、天之眞名井の変遷に言及しております。 ついでまでに、この記述から、富山地名発祥地でもある富山城普請の地「外山郷藤井村」に、まさに件の“藤井”があったことがわかります。富山の地名由来については、奈良において“トビ”と読む「外山」という表記であったことも含めて、当初思った以上になにやら深い謂れがありそうです。 さて、丹後国や度会氏、眞名井について、あまり言及するつもりがなかったわりにはだいぶ踏み込んでしまいましたが、以上のことから、まだ極めて感覚的なものではあるものの、多賀城跡から出土した漆紙文書にある「此治」は、決して語呂合わせのような無意味な文字列ではなく、やはり「比治の眞名井」の「比治」と関連するのではないか、と勘繰らざるを得ないのです。 伊治城は古くから「いじじょう」と呼ばれていたのであって、迫川の古名も「イジ川」、伊寺水門も「いじのみなと」でありました。それらの韻があきらかである以上、やはり「此治」は「ひじ」と読んでおいた方が自然だと感じるのです。 先達の研究諸氏が「此治」を「これはる」や「これはり」と読むようになったのは、「此治郡」を「栗原郡」のことと決め打ちしたからに過ぎず、今のところ、それを明確に裏づけるものがあるようには思えません。「上治郡」を「此治郡」と捉えることまでは、伊治城や伊治公砦麻呂の「伊治」からみて妥当性があるにしても、「栗原郡」と「此治郡」については各々が示唆するところの意味からして一旦は別物という視点で考えておく必要を感じております。 とすれば、伊治公砦麻呂も含め、当地に土着していた人々の素性にもさらなる好奇心を覚えずにはいられないのです。 |
天香山
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