はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

國分荘史考

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 久々の大雪の影響で大渋滞していた国道四号仙台バイパスでの北上を避けるため、山崎インターから利府街道に入った私の目に、とある観音堂が飛び込んできました。
 「牧嶋観音堂」です。
 こちらには「モクリコクリの碑―蒙古・高句麗の碑―」を調べていた頃に参拝したことがありました。当時、ここを訪れずにはいられなかったのです。何故なら、天明年間(1781〜1789)に鹽竈神社祠官藤塚知明の解読によって「蒙古の碑」を「蒙古の碑」たらしめることとなった「善応寺―仙台市宮城野区燕沢―」のそれは、昭和十六(1941)年に蒙古聯合自治政府主席徳王の視察にともなって牧嶋観音堂から遷されたものであったからです。つまり、藤塚知明が解読したところの「蒙古の碑」は本来「牧嶋観音堂」にあったものなのです。
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 木村孝文さんの『宮城野の散歩手帳(宝文堂)』によれば、この蒙古の碑は、もと安養寺跡の土中から享保八(1723)年に発見されたもの、あるいは燕沢三丁目の燕沢寺跡に通じる路傍から発見されたものであったようですが、いつの頃か不明ながらこの牧嶋観音堂に移されていたのだそうです。
 さて、心の中にその観音堂の名を呼び起こした瞬間、またしても神経衰弱ゲームで両カードの一致をみたときのような喜びを得ることになりました。拙ブログを長くお読みいただいている方なら、私が何を言わんとしているのかもう既にお気付きかもしれませんが、あえて観音堂の名を強調しておきます。

 「牧嶋観音堂」

 これまでに拙ブログと御縁のなかった方は「・・・で?」と思われることでしょうが、様々な思惑を語り直すには字数が多すぎるので、ここでは拙ブログへの予備知識があることを前提に、簡潔に触れるにとどめておきたいと思います。

 何故、執権北条氏を破綻させることに繋がったにっくき元の兵卒―蒙古兵―を供養する碑が当地に存在したのか・・・思うに、執権北条時宗のブレーンであった無学祖元によるものという通説には矛盾があります。
 破綻に追いやられた北条氏はもちろん、祖元にしても故郷の南宋を元軍に滅ぼされております。
 祖元が蒙古兵を慈しんだとするには、祖元の知を拝借したであろう時宗が元の交渉をことごとくはねのけた事実とも矛盾します。
 そこで私は奥州に色濃い高句麗系騎馬民の血に因果を求めました。
 言うなれば、奥州は元寇の100年足らず前に鎌倉軍に侵略されたばかりなわけで、鎌倉幕府の崩壊に対してそれほどまでに悲劇性を感じてなかった可能性もあります。いえ、むしろ、元軍の尖兵にされた高句麗人に対して同情的であった可能性すらあるのではないでしょうか。
 なにしろ、奥州兵を屈強たらしめた大きな要因には、天武天皇の秘密兵器として育成されていたと思われる信濃系移民の末裔による騎馬戦術があったと想像しております。彼らのその実はほぼ高句麗系渡来人と考えられます。馬を戦闘に利用する渡来人は、『東夷伝』の記述を信じれば高句麗人にほぼ限定されるからです。
 いつの頃からか牧嶋観音堂に移されていたという「蒙古の碑―モクリコクリの碑:蒙古・高句麗兵供養の碑―」・・・。
 牧嶋観音堂は、その名にもあるとおり間違いなく「牧―馬柵―」に関連する観音堂であるでしょうから、板碑を観音堂に移した人物は、私と同じ部分に因果を見い出した人物か、あるいは、なんらかの真実を知っている人物なのでしょう。
 なにしろ、板碑はこっそり運び出せる代物ではありません。これを移したのは一個人ではなく、それなりの組織であったのでしょう。

 以下に現在までの「モクリコクリの碑」関連記事のリンクを貼っておきますので、もしご興味を持たれましたら御参照いただければ幸いです。

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閉じる コメント(9)

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私が歴史スキになったのが、燕沢の「蒙古の碑」を学んだことからでした。。。
燕沢寺跡ではなく牧嶋観音堂にあったのですか・・・
碑の内容は、供養と言うより「他国からの侵略に備えよ!!」という警告文だったような???

2013/1/17(木) 午前 4:18 M.ROSSO

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ロッソさん、ありがとうございます(^0_0^)
ずいぶん渋い角度から道を歩み始められたのですね

燕沢寺跡、あるいは安養寺跡の土中に発見されたものを、何者かが牧嶋観音堂に移したのですが、蒙古の徳王が立ち寄られることになって、牧嶋観音堂ではお粗末すぎるということで現在の善応寺に移されたようです。
碑文に用いられている文字は省略が多すぎて、いろいろな解釈があるようです。とりあえず、蒙古兵の供養という藤塚知明の解釈が最も一般的ですね。
ただ、この藤塚知明は、親友の林子平同様、罪人として死んでおり、また、石巻の田道将軍碑の発掘ねつ造疑惑もあり、信憑性においてややマイナスイメージがあることは否めません。鹽竈神社側からは英雄なのですが・・・。
それにしても、もし碑文の内容が、本当は「侵略に備えよ」であったならば、蒙古戦没者の霊が丁重に弔われていると信じ、たいそう感激してわざわざ燕沢まで足を運び、松の植樹、及び「古道猶存」なる揮毫まで残していった蒙古の徳王は赤っ恥ってことになってしまいますね・・・

2013/1/17(木) 午前 7:13 今野政明

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初めて参加(?)させて戴きます。巷間伝わる「蒙古の碑」=戦没蒙古兵の慰霊 とするには承服できません。文字なのか記号なのか明確でない「彫り跡」を、江戸期に解読したとする藤塚知明の言を、読めない人々が「正しい!」と言える訳は無い!昭和16年2月27日付けの河北新報を確認して欲しい。「蒙古字」とありますよ。

2018/4/9(月) 午前 10:39 [ aki**rek*si ]

aki**rek*siさん、ありがとうございます。

承服しかねる理由も教えていただけるとうれしいですね…。

いみじくも、読めない人は「正しい!」と言えないのと同様、「間違っている!」とも言えないはずですからね。

私はただ、蒙古兵供養説が一般的なので、さすれば何故この地にそのような碑が建立され得たものか、考察を重ねてみたに過ぎません。

残念ながら、説そのものの真偽についてはわかりません。

2018/4/9(月) 午前 11:37 今野政明

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『宮城郡誌』などの史書に依れば「河成允」と称する書生が云うので、碑文は元僧祖元が草稿を書き空門子”清俊”が建てたことにした…とあり釈文は「解読」ではなく「解釈」であろう と考えています。字面で判断できたのは「弘安五年」「清俊」であり、他の文字らしき彫り跡についての解説は不明な”独話”だと考える。一つお訊ねします 「河成允」という人物を明らかにしていただけませんか?知明の説の出処は「河成允」だからです。

2018/5/22(火) 午前 3:35 [ aki**rek*si ]

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> aki**rek*siさん
時代が違う…と云ってしまえば済んでしまうのでしょうが、祖元は紙でもなく木片でない「石」に彫り付けた「慰霊文(?)」を一体誰に読ませようと建てたのでしょう?
慰霊の対象が襲って来た蒙古兵であることと、起草者が元僧祖元であること等を理由にお上を憚り僻地・陸奥の田舎に建てた…とする説にも承服できない。この碑文を読めない人々だらけの日本国で「鎌倉」であろうが「博多」であろうが憚る理由など有ろうハズも無い。まして「怨親平等」を念じた時宗の意を汲んだ祖元に依る建立である…とするならば、「お上」=鎌倉幕府=北条時宗ではありませんか 憚る理由が有りません。宮城の三碑は、この碑を除き読める碑文だそうですね 私はよめませんが・・・。

2018/5/22(火) 午前 3:58 [ aki**rek*si ]

aki**rek*siさん、ありがとうございます。

藤塚説を否定したいことはよくわかりましたが、さすれば貴殿は結局これを如何なる碑であろうとお考えなのでしょうか?
恐縮ながら、それが全く見えてきません。
さしあたり私は以下の前提で論を進めてまいりました。
すなわち、「蒙古兵を供養する碑」説と「祖元の供養文の碑」説の両立は考え難い、とした上で、ただし「蒙古兵を供養する碑」という意味においては、ひょっとしたら“奥州であればこそあり得たのかもしれない”旨を拙稿「蒙古の碑」において述べ、その方向を前提として論じてきました。
とはいえ、記事化はしておりませんが「祖元の供養文の碑」についても、仮に、藤原相之助が小萩伝説考の一試論を展開する上で引用したところの『宮城郡誌』のとおり、「元前死」が平泉三代を指し、「後殞矣」が頼朝三世を指し、すなわちこれを「平泉関係の安養寺の碑」であったものと暫定するならば、なるほど可能性がなくもないかな、とは思っております。

2018/5/22(火) 午後 1:15 今野政明

追伸
大胆な憶測を試みるならば、北条政権を大いに揺るがすこととなった元寇が、頼朝、あるいは奥州藤原氏の祟りだと受け止められていたとは考えられないでしょうか。

仮にそうであるならば、その供養は執権北条氏、ひいては源氏の正当性にも後ろめたさがあったことを認めかねないわけですので、十分に時宗が世論を憚りながらそれを行わなければならなかった理由たり得ると思います。

ちなみに、東北大学植物園内にある青葉山の碑には「陸奥州主」という文字が刻まれております。

2018/5/22(火) 午後 1:53 今野政明

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なるほどそうですね。私は「戦没蒙古兵の慰霊碑」という見かたをしてません。
昭和16年、蒙古主席:徳王が来日、2月26日善応寺に「蒙古碑」を詣でている。この時、「碑の来歴と保存に対する地元民の努力」を説明した「斉藤報恩会総務部長:小倉博」は「〜畢竟、伝説である」と述べています。日本政府から「蒙古独立の協力」を得るべく来日した徳王は、その思いを結実したく「蒙古碑」は日本人の大和魂の発露である・・・と落涙してみせている。小倉は「宮城縣に着て欲しい」と願い、当時の知事も折衝に赴いていた。徳王本人の希望ではない政治的手配だ。

2018/5/22(火) 午後 5:03 [ aki**rek*si ]


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