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國分荘史考

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安達泰盛の供養

 東北大学植物園内にある青葉山の碑の説明板が記す「陸奥守」は、「陸奥州主」という碑文への解釈のようですが、その具体的な人物について、『仙台市史』は、「北条業時(なりとき)」や「安達泰盛(やすもり)」などの諸説があるとしております。
 両者とも「陸奥守」を号していたことがあり、業時は弘安十(1287)年、奏盛は弘安八(1285)年に没しております。
 なるほど、二つの碑の建立時期が各々弘安十(1287)年と正安四(1302)年なので、一見なじみが良いように思えます。
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 しかし、業時が没したのは、弘安十年“六月”―1287年8月―であり、「陸奥州主」と記載された弘安十年碑の“二月”銘に対してはつじつまが合いません。
 また、もう一方の正安四年碑は、「右志者為四十人講衆面々各々所志聖霊往生極楽〜」とあり、碑文からすると建立者の四十人の講衆が各々思うところの人物に対して供養しているようなので、必ずしも「陸奥守―陸奥州主―」の供養碑とは言えません。
 したがって、被供養者としての陸奥州主が北条業時である可能性は低いと私はみております。
 しいて注目するなら安達泰盛説です。
 泰盛は、八代執権「北条時宗」の右腕として絶大なる人望を集めておりました。
 しかし、オールジャパンで蒙古襲来を迎え撃った後、領土獲得が皆無の中で論功行賞の采配を振るわざるを得なかった泰盛は、少なからず最前線で命を賭けた武士らの不満に身をさらす立場となりました。
 うらはらに、時宗の子「貞時―九代執権―」の乳母父「平頼綱」はその混乱に乗じ、戦時体制における北条得宗家への権力集中によって急激に台頭し、泰盛の対抗軸となりつつありました。
 まもなく執権時宗が心労のうちに夭折すると、事態が動き始めます。
 事実上の主導者となった泰盛は、社会不安の解消を目論み、幕政改革に踏み切りますが、将軍の権威を高め、北条得宗家の立ち位置を相対的に低め兼ねない改革内容は、特に北条得宗家の権威に依存する頼綱の反発を招きました。
 頼綱は、泰盛が将軍になろうとしていると執権貞時に讒言し、泰盛討伐の命を引き出すのです。世に言う「霜月騒動」の勃発です。
 この騒動によって泰盛は党派もろとも滅ぼされました。
 ちなみに、十数年前に和泉元彌さん主演で話題となった大河ドラマ『北条時宗』では、安達泰盛役を柳葉敏郎さんが演じておりました。
 ドラマは霜月騒動前に最終回を迎えましたが、北村一輝さん扮する平頼綱の台頭は不気味に描かれておりました。私はこのドラマで初めて北村一輝さんなる俳優を目にしたのですが、後の『天地人』での真正直で武骨な「上杉景勝」役とは全く正反対で、狂気を潜ませたその目つきには鳥肌が立ったことを覚えております。当時、本当に性悪な人間なのではないかとすら思った程です。
 それはともかく、逆臣として討ちとられた安達泰盛の供養は文保元(1317)年頃まで禁忌であったとされております。このことは、当年に行われた泰盛の甥「安達宗顕」の三十三回忌法要の記録によってわかるようです。
 となれば、泰盛死亡からまもない建立月日銘の供養碑が、人目に触れない禁足の森に建てられた事情にもつじつまが合いそうです。
 それらが真実であれば、藤塚知明の碑文解読で有名な蒙古の碑の碑文が、意図的に欠損せられた文字で暗号めかせて刻まれたこととも関係していると考えられます。
 あるいは、蒙古の碑と呼ばれる同時期の板碑全般にもこのあたりの事情が関係しているのかもしれません。
 平安時代以前と考えられる伝説の島津陸奥守の事情とは整合しませんが、蒙古の碑単体の謎解きとしてはかなり有力な説であると言えるでしょう。
 何故安達泰盛が宮城県で供養されたのかについては、彼が「陸奥守」であったからという理由に尽きるのでしょうが、それに巨費を投じてでも供養しておきたい一派が当地にいたということには興味があります。なにしろ板碑の製作費用が村一つの年間予算に匹敵するということから考えれば、そんじょそこらの講がなせる業ではありません。
 『仙台市史』は、青葉山の碑の被供養者が泰盛であることが正しければ、国府関係者によって建立された可能性が高い、としております。板碑の石材が井内石とアルコース砂岩であることもそう考えさせているようです。この組み合せは、ほかに府中―中世の多賀国府推定地―たる「岩切:仙台市宮城野区」にしかないからです。
 その岩切の府中を管掌していたのは留守氏です。
 つまり、市史は定説どおり留守氏がこれらの板碑を建立したと言いたいのでしょう。
 市史は、青葉山について「この地域は、国府関係者だけに開かれた、特別な霊地・聖地として意識されていたのである」とも記しております。
 しかし、一縷の疑問も残ります。
 国府関係者だけに開かれた青葉山に、何故結城氏や國分氏が城を構えられたのでしょうか。
 しいて想像するならば、彼らがこの森の護衛者としての位置付けにあったという可能性が考えられます。
 なにしろ、蒙古の碑と呼ばれる板碑が留守氏管掌領域というよりも、むしろ國分荘内に点在しているということは忘れるわけにいきません。留守氏の関与の正否に関わらず、この板碑の建立者はやはり國分氏でしょう。
 仮にそれが安達泰盛の供養碑であったにしても、それは國分氏が彼を供養したもの、という視点で私は考えるのです。
 もちろんその場合のその動機はまだ見いだせてはおりませんが、泰盛の幕政改革が伊勢や宇佐など有力社寺領の回復に積極的であったことには注目すべきと考えております。その改革は陸奥國分寺や鹽竈神社にも有利であったことでしょうし、私論では國分氏が陸奥國分寺の院主家系由来の大名であったと考えているからです。
 いずれ、泰盛供養説について私の頭はまだ保留状態にあります。
 なにしろ、これらの碑は、昔から「蒙古の碑」なり「モクリコクリの碑―蒙古高句麗の碑―」と言い伝えられてきているのです。年号が元寇に近かったからそう名づけられた、というのは、あくまで後世の学者の推論に過ぎないということも忘れてはならないと思うのです。

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