はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 山室恭子さん著『黄門さまと犬公方(文芸春秋)』という新書があります。一般に“暗君”として名高い五代将軍「徳川綱吉」を“名君”と評して憚らない井沢元彦さんが、著書『逆説の日本史(小学館)』の中で引用していたのを見てたいそう興味が湧き、入手してみました。
 山室さんは歴史学者と呼んでいいと思いますが、著書におけるその語り口は実に軽妙で、随所にユーモアも織り交ぜられております。新書の体なので集中して読めば私程度の頭脳でもものの2〜3時間もあれば読み終えられますが、よくよく振り返ると、これが仕上がるまでに精査された史料はなかなかに膨大であったことに気付きます。それだけに私たちが良く知る従来の綱吉像―水戸光圀像もしかり―がいかに偏った情報からの定説であったかも浮き彫りにならざるを得ないのです。
 先に、悪評高い「生類憐み関係の発令の数々」が殺人をなんとも思わなかった国民の気風に劇的な変化をもたらしたようである旨を、さも私自身の発見であるかのように賢らに触れておきましたが、念のため申し上げておくと、これは山室さんや井沢さんといった少数派の説への“便乗”です。もちろん、私はこの両者が正しいと考えております。
 そもそも何故生類憐みの令の前後で気風に変化があったことがわかるのかというと、次のような逸話があるからです。

――引用:前述『黄門さまと犬公方』より――
むかし隣人の加藤という十六歳の侍が、若党を成敗したことがあっての。加藤が二階にいて主従が言い争う声が高く、けしからぬことだと思っているうちに、加藤がはしごを駆け降りる音が聞こえてきた。すわ一大事と刀をつかんで馳せ向かうと、加藤がすでに一刀斬ったものの、細腕で斬れなかったのか、かの従者が包丁を手に主人に立ち向かっているところであった。そこで、私が刀を引き抜きざまに斬ったところ、そいつの肩から斜めに、前にあった青磁の鉢もろとも切り離した。とどめを刺せよと言い捨てて、刀の血を拭い、鞘におさめて帰ってきたものさ。その刀なのだから、大切にしろよ。 (『折りたく柴の記』巻上)

 これは、新井白石が父から刀を拝領したときに父が白石に語った武勇伝のようですが、加藤なる人物は白石より40歳ほど年長であったようなので、この惨劇は寛永九(1632)年前後、すなわち、丁度三代将軍家光の「生まれながらの将軍」パフォーマンスに伊達政宗が便乗した頃というころになります。
 山室さんは、

「その頃には、口喧嘩の果てに主人が若党を手討ちにすることがあたりまえのようにおこなわれ、そして白石がこの書物を著した享保元年(一七一六)、八代将軍吉宗の治世には、そんな風潮はきれいになくなっていた。だから、こうしてもの珍しげに採録されたのだと、そう理解してよいのではないか」

と語っております。
 白石の父はこの他にも似たような武勇伝を懐かしげに語っているようで、山室さんは、

「白石や綱吉らの親世代までは、すぐに刃傷沙汰に及び、しかもそれをよしとする猛々しい風潮が、たしかに存在していたことを窺わせる」

としております。その補強に、それがすっかり変わってしまったことを嘆く老人の説話もとりあげております。

――引用:前述同書――
六七十年前までは奉公人が少しでも悪事を働けば、その家で手討ちにしたものじゃ。逃亡すれば捜し出して刀の試し物にしたので、一ヶ月にニ度三度はあちこちの家で試し物があり、下々の作法もよく、刀や脇差の切れ味をみるのにも便利であった。それが近年では、悪事を働く者がおらぬのか、あるいは主人が慈悲深くなったのか、とんとなくなってしまったことよ。 (『むかしゝ物語』)

 この老人は当年81歳の武士であり、昔のことを聞きたがる子供のためにと、享保七(1722)年、すなわち綱吉没後13年後にこの書物を著しているようです。つまり、試し物が頻繁に行われていた「六七十年前」は四代家綱の治世の前期であり、綱吉が登場する二十年ほど前ということになります。
 この老人はこの他にも、昔は合戦の話や先祖の手柄の話で盛り上がったのに今は食い物や遊興の話などばかりで武道の話題がないと嘆き、さらに、最近の若者は家の中で丸腰で不用心だ、太平の世になったものだ、などとも嘆いております。
 この老人や白石の父の感覚は決して特殊ではありません。仁慈の君として誉れ高い水戸光圀ですら次のようなことを家臣たちに語っているのです。

――引用:前述同書――
わしがどこからかの帰りに夜更けて浅草の御堂で休んだ折のこと、連れのひとりが、この縁の下に非人どもが寝ておるぞ、引き出して刀の試しにしようと提案した。つまらぬことをおっしゃる、どうして罪なき者を斬れようか、無用なりと退けたのだが、臆病者と嘲られたので、そうまで言われては是非もない、いで私が非人を引きずり出してみせようと、真っ暗な縁の下へ這い入った。非人が四五人ほども寝ていたであろうか、私どもはこんなありさまになっても命は惜しいのに、どうしてかような情けないことをなさるのですと皆奥へ逃げて行くのを、私もそう思うが連れが無理を言うのでやむをえんのだ、前世の宿業とあきらめよと、手にさわった一人を引っぱり出して斬った。そののち、こんな心根の者とは思わなんだ、とくだんの友人には絶交を申し渡したことであったよ。 (『玄桐筆記』第七十段)

 さすがに光圀ほどの人物ともなればその残虐行為に大いなる疑問を感じたようですが、かといってそれを隠すほどの悪事とも考えずに得々と語っているのです。また、これによって、人を殺すことよりも臆病者と評されたくない気持ちの方が優先されていたこともわかります。
 繰り返しますが、このようなすさまじい気風が、五代将軍綱吉の治世を機に激変しているのです。はたして綱吉はその結果を意図していたのでしょうか。
 引き続き、綱吉が何故“生類憐み”を強要したのか、また、何故それが後世に悪意をもって大きく曲げられて伝わっているのか、などを語ってみたいと思います。

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