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五代将軍徳川綱吉は、何の目的があって「生類憐れみ関係の発令の数々」を繰り出したのでしょうか。 実は、発令に合わせてわりと頻繁に根本の理念を説明していたようです。それは貞享年間から元禄年間に入っても尚、一貫してぶれることがありませんでした。 綱吉は、人々の心の中に「仁心」や「慈悲の志」を涵養せんとしていることを、いちいち宣言し続けていたのです。 なんて素晴らしい政治理念なのでしょう。 しかし信心深い善男善女に講釈する高僧や儒者ならともかく、そんな立派な理想論の宣言が多様な民衆からも胡散臭く見えない権力者など、日本史上でも聖徳太子一人くらいのものではないでしょうか。あまりに立派すぎると真に受けることが出来ず、ついその裏にある本音なり企みが何かを勘繰ってしまうのが古今東西共通の人間の性です。 それが後世に「跡継ぎ欲しさ」や「生まれ年」といった綱吉個人の事情に原因を求める傾向に走らせたようにも思います。 そこからさしあたり一歩踏み出したのが塚本学さんのようです。 塚本さんは、『生類をめぐる政治 元禄のフォークロア(平凡社)』の中で、「当時の社会状況への対策」という視点から、「人民武装解除」や、犬食習俗のある「カブキモノ対策」、「野犬公害対策」、「宿場の馬の確保」、その他諸々あれど、おおよそそういったところに政策の意図を求めました。 なるほど、実際に殺人習慣が矯正されたという結果から考えると、一見的を射た論説ではなかろうかとも思えます。 ところが、山室恭子さんは首を傾げます。 ――引用:『黄門さまと犬公方(文藝春秋)』―― 「人民武装解除」という重大なる使命を帯びていたのなら、なぜ次代の家宣に至って、あっさり撤回され、鉄砲もバンバン撃っていいよとなってしまったのか。無頼の輩を取り締まりたいのなら、犬食らい習俗の抑圧なんていう迂遠なことをせず、もっと直接に手を下すのではないか。野犬に手を焼いたのなら、資金も手間もかかる収容所より、ストレートに殺戮に向かうのでは。病馬や死馬を捨てるのを禁じたくらいで宿場馬の確保につながるのか。などなど、私なりに生類憐れみの現場に立って思案してみると、どうにも腑に落ちないことだらけである なるほど、こうも見事に的を射たダメだしを連ねられると、私自身の思慮の浅さを痛感します。私もまだまだ穿った人物眼から離れられずにいたようです。 山室さんは続けます。 ――引用:『黄門さまと犬公方』―― 何より強い違和感を感ずるのは、法令の裏の意図、隠された狙いをさぐろうとする発想に対してである。生類憐れみなんてきれいごとを並べている裏には、人民武装解除とか自由民の取り締まりとか、どす黒い陰謀がとぐろを巻いているんですよ。ほんとうにそうだろうか。綱吉は、痛くもない腹をさぐられているのではないだろうか。 胸が痛みます。万が一冤罪で捕まったらこの人に弁護士になってもらいたい、と思ったのは私だけでしょうか。 憐れみ令と真正面から向き合った山室さんは、膨大な史料精査によって綱吉の人となりをだいぶ明確に浮き上がらせてくれました。 綱吉の盟友「柳沢吉保(よしやす)」の側室は「いにしへのひじりの道まめやかに行はせ給ひ」と綱吉を評していたといい、山室さんはその「まめやか―きまじめ―」こそが綱吉を截(き)りとるキーワードとしてもっともふさわしいと思ったようです。 注目すべきは、綱吉の行った講釈・講義の数々です。 盟友吉保の日記によれば、綱吉は実に58回も吉保邸に足を運んでおり、その都度儒学の講釈を行っていたようです。聴衆は綱吉に随行した老中たちや大名、柳沢家の一族やその家臣といったところで、その内容も実に几帳面であったようです。 綱吉はその他にも城内において大名や近臣に連続講義を開いていて、その数は実に240回を数えたというのだから驚きです。本当にこの人は将軍なのでしょうか・・・。なにより、この人は本当に悪政で人民を苦しめた暗君なのでしょうか・・・。 山室さんは、綱吉が治世の終わり近くの宝永ニ年に至って「元来聖人之道自従本心」に「エンライシンジンツウドウツウソンペンスヘン」とびっしりフリガナを振って唐音で「聖人之道」とはいかにあるべきかを議論している箇所に出会ったとき、少し胸が熱くなった、と語っております。 どうやら、綱吉は本気で自分の政治において青臭い理想主義とも言うべき「仁心の涵養」に取り組もうとしていたのでしょう。 もちろん、それに付き合わせられた方はうっとおしかったに違いありません。権力者に強制的に自分の価値観を変えられることほど迷惑なことはなかったことでしょう。それが、生類憐れみの発令の数々に対してわざと曲解して茶化すようないたずら的レジスタンスを呼び起こした原因なのでしょう。それに一々腹を立て全て完璧に潰さないと気が済まない几帳面な綱吉は、ヒステリックに次々新たな対症療法を発令し、本来の理想的理念どころではないスパイラルに陥っていったようです。綱吉はどんどん理不尽で厳しいお触れを繰り出さずにはいられなくなりました。 しかし、そうは言っても、山室さんが各種史料から拾い挙げた生類憐れみ関係の処罰例の総数は、綱吉の治世24年間でわずか計69件です。そのうち46件が下級武士で、いちばん被害にあっていた印象で伝わる町人は15件しかなかったのです。 幕府はむしろ身内に厳しい態度で臨んでいたことが浮き彫りになります。 武家側の史料だからではないか、といった懸念も無用です。いちばん多くを採集した『御仕置裁許帳』なる判例集において、殺人や傷害といった項目では町人がほとんどであったからです。 にもかかわらず、生類憐れみ関係の罪人だけは下級武士が過半を占めている、それが現実なのです。それが何故に悪政で町民がことごとくひどい目にあったかのように伝わってしまったのか・・・。申し訳ありませんが、今本稿で掘り下げたい部分ではないので割愛させていただきます。 さて、綱吉が儒教の講釈に並々ならぬ精力をつぎ込んでいたことがわかり、晩年に至るまで聖人之道を究めようと心掛け、たとえ空回りしていたにせよ、「仁心の涵養」なる政治理念もはったりではなく、極めて本気であったことがわかってきました。 では、綱吉は敬虔な儒教の徒であったのでしょうか。 ところがそうでもないのです。 では敬虔な仏教信者であったのでしょうか。 それもどうやら違うのです。 綱吉は自らの目指すところについて、盟友の柳沢吉保に次のように語っておりました。 ――引用:『黄門さまと犬公方』―― 仏教と儒学は慈悲をもっぱらとし仁愛をもとめ、善を勧め悪を懲らしめること、まことに車の両輪である。しかるに現在、仏教を学ぶ者は出家して世間を離れてしまうので、世の中の秩序は乱れきってしまっている。また儒学を学ぶ者は禽獣を平気で食して、万物の命を害することを厭わないので、世の中は不仁で夷狄の風俗のようになってしまっている。まことに憂うべきことだ。儒仏を学ぶ者はその根本を見失ってはならない。 (『徳川実紀』常憲院殿御実紀附録巻中) 驚きです。仏教も儒教も尊重しながら、民衆の上に立って現実に政治を行う立場からの各々の欠点をも見据え、まるで新たな境地を見い出そうかのような勢いです。 綱吉は独学でこの境地にまで至ったのでしょうか。そうかもしれません。綱吉ならばそれもあり得そうです。それにしても、そこには倫理の出発点のようなものが必要であり、それがどこにあったのかが気になります。 少なくとも、前代までの将軍も後代の将軍もこのような発想をもって政治を行っていないわけです。 何故そう言えるのかというと、この思想は生類憐れみの原点となるべきものでありますが、生類憐れみはある意味綱吉一代限りのものでもあったからです。 ということは、徳川家の内部から起った思想ではないということであり、綱吉の倫理の出発点は外部からもたらされたと考えるべきでしょう。 少なくとも、それが新義真言宗の僧「隆光」によるものではないことは、既に触れたとおりです。 とすると・・・、そうです、私は黄檗宗の僧、いえ、『先代旧事本紀大成経』の信奉者「潮音道海」によるものと考えるのです。もちろん、そんなことを証明する史料もありませんし、山室さんもそんなことは言ってません。 それでも私がそう思うのは、潮音道海が十代からの綱吉の恩師であったという事実はもちろん、何を隠そう、『先代旧事本紀大成経』全72巻の70巻目に「憲法本紀」と題されて「聖徳太子五憲法」が所載され、そこに次のような教えがあるからです。 ――引用:『聖徳太子に学ぶ十七条五憲法(文一総合出版)』―― 鼎はカマドの器である。三本の足で支えているのは三つの法に当たる。儒教は人の道を教える五典で精神を明らかにし、釈(仏教)は五教の密い道を説き、神道は五鎮の真を示す。儒教は在世の筋道をたて(理)、更に余った功徳は現世と死後にも及ぶ。釈は死んだ後を導き、余った徳は現世を導く。神道は現世と死後を同じようにすくい、どちらかひとつに偏ることは無い。第十七章の法道を説く。政道を立てるのに必要なのは三法に他ならない。 「政道を立てるのに必要なのは三法に他ならない」――すなわち、政治に儒・仏、さらに神を結び付けた一文です。私は、綱吉が語る政治理念にこの思想の影響を見るのです。
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大成経が流行した時代
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