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同時代の日記類にはほとんど触れられることもなかった生類憐れみ政策が、何故現代の私たちにはとてつもなく滑稽で深刻な“酷い悪法”として伝わっているのでしょうか。私たちの知る定説はいつ頃からのものなのでしょうか。五代将軍徳川綱吉の暗君ぶりを後世に定着せしめた震源地は、一体どこにあったのでしょうか。 なにしろ、現代の一流の研究諸氏のいくつもの慧眼がその定説にさしたる異も唱えていないことからすると、相応に信頼できる根拠があると言えます。 そして、どうやらその最大の根拠は、江戸幕府編纂の公式記録である『徳川実紀』の記述にあるようです。 『徳川実紀』は、五代将軍綱吉の突然の薨去に駆け付けた六代将軍「徳川家宣」の行動の一部始終を、次のように描写していたのです。 ――引用:山室恭子さん著『黄門さまと犬公方(文藝春秋)』―― すぐに枕辺に柳沢吉保を呼んで相談された。「先代は生類憐れみのことを厳命され、先頃の御病中にも、たとえひがごとにせよ、百年経ってもこの方針だけは変えないことが私への孝行と心得よと仰せ付けられた。けれど、この令のおかげで何十万という罪人を出し、獄中に没した者も少なくない。厳しく遺言されたことではあるけれど、この令を廃止しなくては国内の愁いがなくならない」。吉保ももっとものことと賛同したので、家宣公は綱吉の遺骸に向かい、「あれほどの御遺命ではございますが、万民の患いには代えがたいので、生類憐れみの令は廃止させていただきます」と宣言して退出された。 (『徳川実紀』文昭院殿御実紀) 繰り返しますが、これは幕府の公式記録の記述です。 なるほど、なまじ幕府自体の公式記録だけに、本来憚られるはずの先君の生々しい暗君ぶりを露呈する記述には皮肉にも信じさせられます。山室恭子さんや井沢元彦さんの主張に出会わなければ、私もまんまと鵜呑みにしていたことでしょう。 公式記録にまで泥を塗られてしまった綱吉の名誉の回復については、「史料絶対主義」を有害と警告する井沢元彦さんですらも手こずっていたようです。 井沢さんは、当時来日していたドイツ人医師ケンペルの日記に綱吉が「卓越した君主」と称賛されていた事実に後押しされながら、「綱吉名君説」を直接に展開した史料がなくても、綱吉の基本政策である「生類憐れみの令」以前と以後で社会に劇的な変化があったことは明らかであるので綱吉が「名君」であったことは間違いない旨を推断しておりました。しかし、それを史料で実証することは難しいと半分あきらめていたようです。 ところが、その困難な仕事を山室さんは成し遂げていたのです。先に触れた、殺人習慣を懐かしむ老人の声や水戸光圀の武勇伝(?)などもその一つです。 「視点さえ変えればむしろ史料は歴史上の真実を探るための有力な武器になる(当たり前のことだが日本の歴史学界では決して当たり前ではない)ことを、私も再認識させられた―『逆説の日本史(小学館)』より―」 井沢さんは山室さんの功績を高く評価しております。 では、その山室さんが幕府公式記録の誤謬をどのようにあぶり出したのかを見てまいります。 まず、山室さんは『徳川実紀』の当該部分にも登場している「柳沢吉保」の日記『楽只堂年録』と『徳川実紀』との齟齬を指摘しております。実際にその時代にその場に居合わせた吉保は次のように証言しております。 ――引用:『黄門さまと犬公方』―― 一月二十日、間部詮房と一緒に老中に申し渡すようにと、次のような新将軍の仰せを承った。生類憐れみのことについては、先代がお心にかけられたように、いずれも遵守して断絶なきようにせよ。ただし万民が苦しまず、咎人を出さず、町屋も困窮せず、奉行所も煩わされないよう、万事穏便に済ませるべく心がけよ、と。 なるほど、新将軍が先君の遺命に背いてでも廃止にする宣言をしたとする『徳川実紀』とはだいぶ雰囲気が異なります。 山室さんによると、実際に市中に触れ出された通達の文面―『宝永日記』―も吉保の日記と合致しているようです。 つまり、同時代の史料は100年以上経た後の『徳川実紀』とは異なる事実を伝えているのです。同時代の史料は、家宣が、生類憐れみの原則は撤回しないと述べつつ中身を骨抜きにすることで実質的な終息へと向かった旨を記しているのです。 山室さんは、この同時代の記録に信を置きました。 何故なら、綱吉の死が誰も予期せぬ突然の事であったにもかかわらず、24年にもわたる政権の表看板を下ろすほどの重大な決断を、『徳川実紀』が記すように新将軍の家宣がにわかに独断し得たとするにはいぶかしく、むしろ同時代の史料が記すように穏やかに骨抜きにしていったとする方が自然だからです。 『徳川実紀』には悪意とも取れるなんらかのバイアスがかかっていることが推察されます。 そこで山室さんは、『徳川実紀』がどこからその話を持ってきたのかを捜索することにしました。 そして、ついにそれを突き止めました。 ――引用:『黄門さまと犬公方』―― 内閣文庫に何種類も蔵されている幕府吏僚の業務日誌、あるいは系図類や法令集など、『徳川実紀』の情報源として知られているものを片っぱしからめくって突き止めたのは、この話はたった一冊の書物にしか掲載されていないということである。『折りたく柴の記』である。 震源地は『折りたく柴の記』――すなわち「新井白石」であったのです。 山室さんは言います。 「『徳川実紀』の編纂官は、大学者でありかつ家宣の側近くにあった白石の言うことなのだから、と全幅の信頼を置いて採用したのであろう」 山室さんの追撃の手は、いよいよ震源地の新井白石に向けられることになります。
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大成経が流行した時代
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