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大成経が流行した時代

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 五代将軍「徳川綱吉」と「生類憐れみ政策」を、現代に至るまで「暗君による滑稽で深刻な悪法」として伝えることとなった江戸幕府の公式記録『徳川実紀』は、山室恭子さんの精査によって、どうやら、その当該部分については『折りたく柴の記』なる「新井白石」の自伝的随筆ただ一冊を典拠にしていたことがわかりました。
 『折りたく柴の記』は、六代将軍「徳川家宣」が儚くも没した後、新井白石自身が自らの理想のすべてを傾けて補佐した家宣の事蹟を、少しでも後世に伝えようとの願いをこめて執筆された書物であります。そのことは序文においてはっきり宣言されております。
 そういった書物であるならば、当然家宣を持ちあげようとする意識が過剰になることはやむを得ないでしょう。
 生類憐れみ政策の終息についても、実際には、法の原則は撤回しないと宣言しつつゆるやかに骨抜きにしていったものを、先代の遺命に背いてでも国内の愁いをなくすために廃止する、と高らかに宣言したような記述に変えられました。家宣を持ちあげたいが故に先君を貶めようとする意図が大きく働いていたことは明らかです。
 しかも、この部分は「ある人の申せしは」で始まる大きなカッコの中に入る伝聞のようです。白石が実見したことではなかったのです。
 はっきり言えば、綱吉に比べ家宣は凡庸でありました。
 生涯聖人になる道を探り続けた綱吉に対して、家宣は儒学の古典のようなものにはほとんど関心もなく、軍記・軍談の類にばかりふけっていたようです。
 この凡庸な将軍に全精力をつぎこんで補佐した白石は、家宣の薨去にあたって、実像をはるかに超える理想的な将軍としてその名を歴史に刻ませておきたかったようです。
 その目的のために、白石は綱吉を貶めてでも生類憐れみ政策の悪法ぶりを強調しておく必要があったようで、『徳川実紀』の典拠となった次の記述を忍ばせております。

――引用:山室恭子さん著『黄門さまと犬公方(文藝春秋)』――
此年比(としごろ)、此事によりて罪かうぶれるもの、何十万人といふ数をしらず。当時も御沙汰いまだ決せずして、獄中にて死したるものの屍を塩に漬しも九人まであり。いまだ死せざるもの、また甚数多し。

 山室さんによれば、塩漬けにした罪人の数については、他の文脈に家宣側近の間部詮房から入手した数字として記されているようで、それにより塩漬けの罪人25人のうち生類憐れみ関係が9人であることがわかり、いちおうの裏付けがある数字としてみることが出来るようです。
 ただし、当の山室さんが指摘するとおり、それが一ヶ月分なのか三ヶ月分なのか、はたまた三年分なのか、多いのか少ないのか、判断の基準が与えられておらず、嘘ではないにせよ、ことの全体でもないことは留意すべきでしょう。
 それよりも、罪人の数「何十万」という表現です。
 山室さんは、「これでは、江戸の町人はことごとく罪人になってしまう」と呆れ気味に語っております。
 井沢元彦さんも、人口20万人の都市で30万人が殺されたと主張する中国の言い方にそっくり――南京大虐殺のことでしょう――、とした上で、「今も昔も歴史を歪曲する者は同じような手口を使うものらしい」、と揶揄しております。
 生類憐れみに関係する罪人の総数は、現存する史料での山室さんの地道な精査によって24年間で69件であることが論証されております。白石がぶちあげた何十万とは比べようもない総数差です。
 『徳川実紀』も公式記録には違いありませんが、処罰例の総数を見極めるために山室さんがいちばん多く採集した『御仕置裁許帳』は「判例集」、いわば実務的な台帳のようなもので、『徳川実紀』のような「史誌」の類とは毛色が違います。総数の差が微妙ならばいざ知らず、これだけ圧倒的な総数差があって、しかも同時代の史料とまるで整合性のない白石の非現実的な数の捉え方を見れば、どちらが信頼できるかは言うまでもないでしょう。
 どうやらからくりが見えてきました。
 かつての「徳川忠長」改易事件のあおりを受けて、その重臣であった父と共に蟄居の憂き目に合い幕府に恨みを抱いていた「戸田茂睡」のジョークまじりのエッセイ以外、同時代の日記の類にはほとんど話題にもあがっていない生類憐れみ政策が、後世にとんでもない悪政の極みとして伝わったのは、六代将軍徳川家宣なる人物を輝かせたい新井白石ただ一人のプロパガンダが、白石という信頼のブランドと共に浸透していったからのようです。
 また、白石には個人的に綱吉を恨む理由もありました。
 それは、綱吉の将軍継承劇とその後の不可解な騒動に遡ります。山室さんはそこにも目をつけているのですが、それはあらためて展開したいと思います。

 何を隠そう、私はそのあたりに『先代旧事本紀大成経』焚書事件の事情も絡んでいると想像しているのです。

 さて、綱吉暗君説が白石の個人的感情から派生したものだとして、もちろんだからと言って、必ずしも綱吉の治世が人々から称賛を得られるような素晴らしいものであったことにはなりません。
 いえ、むしろ圧政と感じていたことでしょう。
 特に倫理観、精神的な部分にまで干渉された幕臣・下級武士において、それは窮屈で鬱積の溜まる時代であったに違いありません。先にも触れたように、奉公人への手討ちや賤しいものを刀の試し物にするような殺人習慣については、私たちが現代の日本に生きているからこそ眉をひそめてしまうのであって、当時はむしろそちらが当たり前であったのです。それを否定された武士らは、一個人の倫理観に基づく理想論で強権をふりかざしてくる綱吉をどう思ったか・・・。
 なにしろ、先代将軍の家綱は、始祖徳川家康による「将軍はバカでもいい」システム――井沢元彦さん説――の完成によって、既に老中主導のお飾り将軍でありました。そこに綱吉という独裁的な将軍が返り咲いてしまったのです。当時の幕臣の本音からすれば、出来れば綱吉を将軍の座から引きずり下ろしたかったのではないでしょうか・・・。
 おそらく、少なくとも一部の老中からすれば、綱吉のような将軍にはニ度と現れて欲しくなかったでしょうし、そういった意識の積み重なりが白石の綱吉潰しを開花させてしまったのではないか、と私は思うのです。

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こんにちは、この記事を読んで斬捨て御免の風習に感じていた違和感が何故であるかヒントを頂きました。
そして生類憐みの令しか業績の聞こえない将軍(他に業績の伝え知る事無い将軍も多いですが。)が、他の事に関しては人柄すら見えてこないのが不思議でした。この将軍も歴史に歪められた人かもしれないんですね。

2013/9/8(日) 午後 3:18 [ もんや ]

もんやさん、ありがとうございます。

戦国時代のような派手な動乱がないので気付きにくくなっておりますが、この頃の政情は結構ドロドロしていたと感じます。

2013/9/8(日) 午後 4:10 今野政明


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